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設計学レポート

暴走しないための理論から、エコな暴走のための理論へ

現在、「建築的無意識とテクノロジー」は、本来の意味の広さにもかかわらず、建築の「バランスの良さ」「安全制御」という価値を作るための、ひとつの歴史観として利用されているように感じました。

個々の技術の階層を明確にみることは、必要な、あるいは強調すべきテクノロジーの選択と配置を可能にします。建築家は意識と無意識の境界を往復できなければ、その操作が客観的にできません。それはとても分をわきまえた、建築家像です。

このことは、デザイナーの価値の一側面が、必要なところに必要なものを配置して全体を統合できる、という「バランスの良さ」であることを示しています。それは、同じようなレベルの性能のものを作り出すことを可能にし、満たすべき最低基準のようなものが現れます。しかし同時に、デザインがおかしな方向に行くストッパーの役割をも果たしているのでしょう。
 
それは二酸化炭素排出量、予算など、様々な性能基準をクリアしなければならない時代にとって、非常に有用なものでしょう。物が存在するときに起こる効果のなかで、環境負荷は個人に還元されない、人類生存の問題に直結するからです。
 
 一方、建築のテクノロジーそれ自体がもっと微細に、細かく、優しくなって、人間や環境に近づいて来ているように見えます。もはやそれだけで暴走することはないかもしれないほどに、センセーショナルなことをすることは難しくなっていくほどに・・・毒をもりたくても毒そのものが存在しない世界が演出されています。


残された道は、毒ではない毒を演出することです。待たれているのは、エコな暴走です。

その問題がもし、抽象化する方法にあるのだとしたら、テクノロジーの歴史の多様化がおこるでしょう。デザイナーは複数の歴史の中から、ひとつを選択したりするようになるかもしれません。そうすれば同じテクノロジーでも別の自律的自己発展が可能になるからです。このとき描かれるのは、大衆が、もっと多様になっている未来です。ある者にとっての毒が別の者にとって薬になるように見える未来です。

しかし「建築的無意識」の捕らえ方そのものが結局毒を排除してしまうなら、考え方自体が問題です。それはシステムの問題というよりも、無意識と意識の往還ではとらえきれない別のファクターがあることを意味します。明示化する内容がより直接的になればなるほど、変数は限りなく増えていくのですが、それらを統合するときに「建築的無意識」のほかに別の武器を併用する必要があるのでしょう。
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2008.10.11(Sat) - 詩と作文





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