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クローバーの誕生

カレー屋がつぶれて、作業着を着た男が工事をしていた。
週に一度は通る、大きな書店の入ったビルの地下階だった。
駅へつながる地下通路から、地上へと抜ける道の両脇に店がならぶ。
古参の書店の一階を思えば、人通りは少なくない。

僕は、この界隈の大衆的な店なら、大抵のところはトライしたことがある。
つぶれたのは、名前も思い出せない、一度も入ったことのない店だった。
人が入っているところは、ほとんど見たことがない。
この地下道には、スープカレーのちょっとした名店の「モン・サン」が入っていて、こちらは常連だった。
味はしょっぱかったが、いつも人がいて、コーンサラダが頼めば無料で付いてきた。
ほかにもパスタ屋が二件、うどん屋、トンカツ屋、居酒屋があった。
ファーストキッチンもあった。
それぞれにお客がいた。このカレー屋にだけにはなかった。
ステンレスのカウンターの光が、いつも通路に反射して目に入った。
まるで古い中華食堂のようだったのが、いけなかったのかもしれない。

次に通りかかると、「クローバー」という名の新しいカレー屋ができていた。
何人か人が入っていた。
カウンターの形は前あった店と同じだったが、木製で暖かみがあった。
店の内装は白く明るかった。
躊躇したが、北海道にのりこんだ開拓者の気持ちで、店に入った。

カウンターのなかの男と女は、どちらも二〇才前半〜半ばにみえる。
どちらの顔の肌も、白く、みずみずしい。
女の手にはすり傷のひとつも見あたらない。
男の髪は短く、きれいに刈られている。

メニューは数えるほどしかない。
「野菜の色とりどりのカレー」「ひな豆のキーマカレー」・・・
私は「たまねぎのカレー」の鶏肉入りを頼む。
一番やすかったから、という理由だけで。
エビ入りもあったが、たいてい私は肉が食べたいのだ。

「先のお支払いとなります。」
私は千円札をカウンターに置く。
「千円お預かりいたします。」と女が言う。
その手はカウンターに近づき、また離れていく。
私は軽くうなずく。空になったグラスに、自分で水を注ぐ。
男があらわれて言う。「・・・円のお返しになります。」
彼の手の上には、レシートと硬貨数枚が置かれている。
小さな円形のスツールのうえで身をよじりながら、僕は小さなポケットにそれらをしまう。
彼の手も白く、傷ひとつない。毛も目立たない。二人とも、料理人とはとても思えない。

私は店の細長いカウンターの一番端に座っている。
目の前で女は表情を変えず、口を閉じ、しっかりとしたまなざしで、カレーを作っている。
あわてることなく、三つの鍋を操っている。

小瓶に入った赤い香辛料、
透明のタッパーに入ったエビ、
別のタッパーに入った野菜の盛り合わせ
透明の液体
カレー色の別の液体・・・

様々な物や液体が、一定のスピードで絶え間なく、しかし確実に、
五分前に生まれ出てきたような、焼形されたての衛生陶器のような女の手によって、
鍋のなかに順次、投入されていった。
ときどき女と男は会話していたが、それらは丁寧語だった。そしてとても静かで落ち着いていた。
彼らはお互いの距離を縮めることも離すこともなく、ただ内容を伝達しあっているかのようだった。
あくまでカレー作成のための機能的な作業、とでもいうように。

私の前にカレーが運ばれてきて、私は逃げるように急いでそれを平らげた。
なにから逃げているのかははっきりしなかった。別に居心地が悪いわけではなかった。
壁に取り付けられた給湯器が、小刻みに振動していた。
目の前では男がカレーを作っていた。女は背中をこちらに向けて食器を洗っていた。
交代制なのだろうか。

男の目つきに目立った感情は見あたらなかった。
店内にある、照明も、食器も、調味料を入れる瓶も、なにもかも新品なのに、古ぼけて自信なさげに見えた。
男と女だけが、自信に満ちあふれ、店内を支配していた。
僕は圧倒された気持ちで、味を吟味する余裕もなく、席をたった。
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2012.12.23(Sun) - 詩と作文 2012





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