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書評 2015 Spring

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


ブライアン・エヴンソン 遁走状態

大切なときに自分自身の声を、言葉を、うまく発することができない。だが一人になることもできない。努力をしようとしたり、何かの役目を引き受けたり、誰かに頼ろうとすることを、止められない。追求と逃亡、理解と無理解、信頼と裏切り。それらを単なる出来事の連鎖として描くのではなく、登場人物の内面「処理」と一緒に提出すること。
独り言をいっているにもかかわらず、話し相手として読者を想定しているかのようにすること。妻を受け入れるのと引きかえに、同程度の要求を妻に受け入れさせようとすること。どんどんと本当のことがわからなくなり、自主的にものを言わなくなっていくこと。
ホラーのような明るみの見えない世界をはっきりと土台として、その世界の運行プロセスは単なる恐怖だけではなく、作者の言葉通り、そこで人々はそれぞれの持ち味を発揮して「何とか生き抜こうとしている」。

「追われて(a pursuit)」
二番目の妻の好みの煙草はダンヒル。元夫は三人の元妻から、ダンヒルを吸って集中力を高めながら、逃げ続ける。
p26「もしかすると君は、運転している私の隣に座っている君は、自分だけは説明を受けてしかるべきであると感じているかもしれない。」
「私の隣には誰もいない。フランス人の言うごとく、私は独り言を言っている。」

「助けになる(Helpful)」
両眼と鼻を失った男が、自らを助けようとする妻を避け、新しい自分なりの生き方を獲得していく。
p223「同じ空間にいても、その空間で違った生き方をして、違った世界を占めているのだ。(中略)妻にはそれさえわからない。とはいえ、こっちも努力はすべきだろう。助けになろうとするなら、させてやろう。彼は何度も妻の背中を軽く叩いた。
でもなぜ、と彼の中のある部分が問うていた。なぜお前の世界で関係を持たなくちゃいけない?なぜ俺の世界じゃない?」

「父のいない暮らし(Life without Father)」
父の自ら招いた偶然の死を見ていた少女は、母が死の原因だと警察に話してしまう。
p238「叔母さんは寄ってきて、片腕を彼女の体に回した。「ねぇ、ダーリン」と叔母さんは言った。「ごめんなさい、余計なこと言っちゃったわね。あなたの気持ち、わかるわ。何といってもあなたのお母さんだものね。でも忘れちゃ駄目よ、お父さんのことも」」
「だって」とイリーズは言った。
「あなたのお母さんがいなかったら」と叔母さんは言った。「お父さんはいまごろまだ生きてるのよ」
p241「しばらくしてドアが開き、母が連れてこられた。」
「母は不安げに、娘に向かって微笑んだ。
「ダーリン」と母は言った。「お願い、この人たちに言ってちょうだい、私と関係ないんだって」」

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


古井由吉 妻隠

一言でも引用でも表せない魅力とは、このような作品のことを言うのだろう。とにかく読んでみるしかあるまい。
読了後の満足感とは裏腹に、振り返ってみるととらえどころの難しい作品だという風に感じた。
描かれている風景は、主人公とその妻、その階下に住む若者たち、時折現れる老婆に加え、アパート、その周辺、会社と、いたって整理されている。そして、それぞれの特徴も、特別かわったところもない。激しく物語をゆさぶる事件もない。
それ故に、微妙な会話や言語のあやは強調され、人々の行動は変容し、かたちをあらわす。
物語にドラマチックなところはなく、どこにでもありそうな断片がつなぎあわされて、どこにもありえなかった人々の距離感がたちあがり、そっくりと提出されてくる、この不思議な感じ。
とても良い。
特に何も言おうとせず、教えようとせず、何もかも放棄したお喋りのようなのに、力んでいないのが良い。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


柴崎友香 わたしがいなかった街で

切実さがある。衝突があり、血があり、戦争がある。ときに遠く、ときに近いにせよ、確かな感覚を求めていく緊迫感がある。文章の巧みさは幾分ではあるが影を潜めている。だがしかし、全体をみてみると、あらすじすらもない。それでもすんなりと読めてしまうから、それが文章の巧みさと、切実さのなせる技なのだと思う。
主人公の感覚と視点は揺れ動く。主人公の知り合いに、突然視点が移り、また元に戻るように、うつろう。それでも何かひとつの感覚が結実していくような構成・雰囲気がある。その感覚は、だがしかし、他人と直接的にしっかりと共有されることはない。そこの衝突具合、共有されないことでの孤立感のようなものがあまり描かれず、むしろ、まっすぐと楽観的な死の感覚のようなものに主人公が近づいていくあたりが、また熱すぎない感じで、不思議な魅力がある。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


柴崎友香 きょうのできごと

あらすじだけがあり、ドラマや結末がない。そのことによって文章の巧みさが際だっている。切実さはない。だから心に「ぐさり」とは刺さらない。心の表面を、かんなで削って薄い破片にしていくような感じだ。そんな薄い感覚が、ますます文章の巧みさを際立たせている。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


テス・ギャラガー ふくろう女の美容室

時折カーヴァーに似た簡潔さと的確さ、大胆な日常的設定がみられるが、中身は全く違う。夫と比較ばかりされるのは嫌よ、と言わんばかりに違う。
ほとばしる感情の先端。きらめくプリズム。全くの影か、全くの光しかない世界。自分を投げ入れて、投げ入れた過去の自分をまた投げ入れて。潔すぎるプロセスと、七色に昇華する結末。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


ジュンパ・ラヒリ 低地

浮遊する視点。章毎で語り手が(一応)定まっていながら、その章内で別の語り手の考えや思いや独白が、堂々と始まる。これは一体誰の言葉なのだろう?と読み手は立ち止まる。そして、少し時間をかけて物語世界をみわたす。
内なる声と、実際に声に出されたことと、出来事を見ることと、実際の地球や都市の動きと。これらも境界線を最低限にしか(改行や句読点を用いるのみで)明らかにせずに、散文詩のように流れるようにかかれながら、詩ではなく物語として成立している。

(p89-91)
米で一人で研究生活をおくるウダヤンと、一人息子を育てるホリーとの出会い。ヒトでを腕にのせる感覚と、橋梁のケーブル長さの示す印米の距離。

(p295-296)
「この子の母親は、ほかに何を残したのか。ベラの右腕の肘のすぐ上あたり、自分では腕をひねらないと見えない位置に、ぽつぽつと星座のように出ているのが、母親譲りの肌の色だ。」
「ロードアイランドの家のベラの部屋で、もう一つ、母親の名残というべきものが現れるようになった。壁の一隅に、わずかな時間だけ影が出る。これがベラには母の面影に見えたのだ。似ていると気づいたのは母がいなくなってからだったが、そう思ってしまえば、もう心の中から追い出せることではなかった。
影を見ていると、母の額から鼻にかけての線がたどれた。口と顎もわかる。影の出所はわからない。木の枝なのか、屋根の庇なのか。どういう光線の具合なのか、ベラにはわからないままだった」
「朝になると必ず出てくる幻影に、こうして母が来るのだとベラは思った。見上げる空の雲が何かに似ていると思うことはあるだろう。そんな偶然と同じかもしれない。だが影は雲のように分かれず、ほかの形になることもなかった」

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


高井有一 北の河

強烈な母の像に、胸が焼かれる。
母は北の河に冷たく自ら流れる。
「死ぬのよ、そうすればいいじゃないの」
最後の母の息子を冷たく引き離そうとする言葉に、あきらめと、この世を生き抜いていく武器を与えようとする気概と、全てのものに対する怒りが重なる。
母の最期は全てを焼き付くし、物語をひとつの観念へともちあげる。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


デニス・ジョンソン ジーザス・サン

カーヴァーを別の場所、別の時間で演じたような。
切実さはなく、楽天さにそれが変わっている。
まるでそうでもない限り、その場所と時間をいきることが出来ないとでもいうように。
そういう意味ではカミュ的だ---全部太陽のせいだ

会話のかみ合わない感じが良い---「緊急」
「教会に行きたいな」とジョージーが言った。
「カウンティ・フェアに行こうぜ」
「礼拝がしたいんだよ。すごく」
「怪我した鷹や鷲がいるんだぜ。動物愛護協会が集めてくるんだ」と俺は言った。
「静かなチャペルがいまの俺には必要なんだよ」

意味が一発ではわかりにくい(時にほとんどわからない)が、凝縮され、激しく光っている、会話やあらすじ以外の部分(俺と俺たちとお前とお前たち、全ての溶解)---「ハッピーアワー」
「俺はピッグ・アリーにいた。そこはもろに港に建った建物で、ぐらぐらの桟橋の上、海に突き出していて、床はカーペットを敷いたベニア板、カウンターは耐熱樹脂だった。雲の天井を通って太陽がじわじわ降りてきて海に火を点け、溶解した光で大きなピクチャーウィンドウを満たし、俺たちはまばゆい霧に包まれて売り買いしたり夢を見たりした。
ファーストアベニューに並ぶ酒場に入っていく人々は自分の肉体を放棄した。そうなるともう、見えるのは俺たちのなかに棲む悪鬼だけだった。たがいに対して悪を為した魂たちがここに集められた。レイピストは強姦した相手に遭い、見捨てられた子供は母親を発見した。けれど何ひとつ癒えはしなかった。銃はすべてのものをそれ自身から隔てるナイフだった。偽りの仲間意識の涙がカウンターの上に垂れた。そしていま、お前は俺に何をしようというのか?何を使って俺を怯えさせようというのか?」

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


プリーモ・レーヴィ 今でなければいつ

アウシュヴィッツの現実体験を、フィクションという器に載せることに成功した。それは文体が良いからだ。鮮やかに人々がうつしだされる心地よさ。P81~P82のカルリス(※完全な脇役)の登場シーン。
「ガイドがこんなものなら、メンデルは喜んで願い下げにしただろう。だが本当に地理に詳しく、特に徒渉地を知り尽くしているの明らかだった。名はカルリスと言い、ラトヴィア人で、二十二歳だった。背は高く、やせていて、金髪で、身ごなしは流れるようになめらかだった。遠方で生まれたのに、なぜポレジアの沼地に詳しいのだろうか?ドイツ人に教えられたのだ、とカルリスは答えた。そのロシア語はたどたどしかった。彼の村ではロシア人よりもドイツ人のほうが評判が良くて、彼も初めのうちはドイツ人びいきだった。彼はドイツ軍につき、パルチザン狩りのやり方を教わった。そう、この地方で。一年ほどいるうちに、隅々まで知り尽くした。だが彼はばかではなくて、スターリングラードの敗北以降、ドイツ軍が破れると見てとり、再度脱走したのだった。彼は顔を崩して、同意を得ようとした。いつも勝つ側についているほうがいいだろう?だが今はヒトラーにもスターリンにも捕まらないよう、注意していなければならない。だからノヴォショールキに逃げ込んだのか、とレオニードはたずねた。もちろんそうだ。個人的には、ユダヤ人には少しも悪い感情はないから。」
うっとりしてしまうほど上手いと思うがいかがだろう?いま目の前に、一人の、得体の知れないが、やり手の、男が現れる。

主人公のメンデルは、仲間で同じユダヤ人であるレオニードの女を奪う。そのレオニードは向こう見ずな戦闘で命を落とす。メンデルはレオニードに対して罪をおかした意識をぬぐい去ることは出来ないが、逃亡を続けるチームの(その女以外の)誰にもそのことを明かすことは出来ない。
しかもその女はメンデルやまわりの男達よりもずっとたくましく、感情を殺して現実を生きている。メンデルが戦争中に初めて見た夢のシーン。
「・・・天井は黒く塗られていて、壁には沢山の時計がかかっていた。時計は止まっていなかった。時を刻む音が聞こえて来た。だがみなまちまちの時刻を指していた。中には反対方向に回っている時もあった。メンデルは漠然とだが、それは自分のせいだと感じた。廊下の奥から平服を着た男がやって来た。ネクタイを締め、見下したような態度を示し、おまえは何ものか、ときいてきた。メンデルは答えられなかった。どんな名前か、どこで生まれたか、何も憶えていなかった。」(p246)

作家が文章を扱うとき、どの文章を残し、どの文章を捨てていくのかという方針があるとすれば、その重みづけだけで、物語を前に進めたり、終わりに近づけたりすることができる。チームのリーダーであるゲダールの、旅路のあいだ美しい旋律を奏で続けるヴァイオリンが、目的地たるイタリアに入らんとする列車の中で、図ったかのように使いものにならなくなるのは、フィクションのなせる技だが、その描写はあまりにもリアルであり、終局的だ。
「その時、不意に乾いた音が響きわたり、ヴァイオリンが沈黙した。ゲダーレは中空に弓を上げたまま立ちつくしていた。ヴァイオリンの底が抜けたのだった。「ヴァイオリンが壊れちまった」とパーヴェルはあざ笑うように言った。他のものたちも笑ったが、ゲダーレは笑わなかった。彼は老齢のヴァイオリンを見つめていた。ルニネーツで彼の命を救い、おそらく別の機会にも知らないうちにそうしていて、倦怠や絶望を乗り越えさせてくれたものだった。彼を狙った銃弾で穴をあけられ、戦争で負傷したので、ハンガリー人のブロンズメダルで飾ったヴァイオリンだった。「何でもないわ、修理させましょうよ」と白いラケルが言った。だがそうではなかった。太陽と悪天候が木を腐らせていたのか、ゲダーレが舞曲をひいていた最中に力を入れすぎたのか、いずれにせよ、修理不可能なほど壊れていた。駒がめりこみ、微妙に盛り上がった楽器の胴体を壊し、中に食い込んでいた。弦はしまりなく、卑しい様子で垂れ下がっていた。もうどうすることもできなかった。ゲダーレは扉の外に手を突きだし、指を開いた。ヴァイオリンは線路の砂利の上に落ち、不吉な鐘の音をたてた。」(p354-355)

PS:竹山―レーヴィは、村上―チャンドラーや窪田―カミュと同様に、無一文になっても読みたい屈指の攻撃陣である。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


カリ・ホタカイネン マイホーム

自己の中で論理をつきつめる推進力。社会に対する個人の作戦。

cf:安倍公房

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


マーク・ストランド 犬の人生

物語の、登場人物とエピソードの間にある、構成の妙。文章の詩的表現。これら二つがスケッチ的に融合している。
ほとんどの作品において、冒頭の数行は魔法のようだ。簡潔かつ正確に、物語の望む方向へ読み手を導く。

「更なる人生を」「犬の人生」
人や動物に、突然、全くほかの関係のない存在を重ね合わせる。自分と深く結びつけ、話し出してしまう夫と、それを聞いている妻(夫婦の関係だから話せるのかな、聞くしかないのかなという雰囲気・・・)。

「小さな赤ん坊」「水の底で」
純粋に詩的な文章への賛歌。

「ザダール」「殺人詩人」
物語の最後に、フェイントなしの、強烈な一発のストレートパンチがある。一方は暗闇から現れた他人の存在であり、もう一方は死にゆく人の残すメッセージである。それらはいかに人が賢明に事をしようとも、自分の存在が、厳格さが、信念が、跡形もなく消え去ってしまう地平を、みせてくれる。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


小川洋子 猫を抱いて象と泳ぐ

作者が焦点を当てている人々が明確で、とても読みやすく仕上がっている。(太って)大きくなりすぎた人々(マスター、総婦長さん)と、成長を止めたチェスを指す少年。極大と極小。もちろん静かな美少女ミイラや祖母、祖父、弟、あるいは老婆令嬢、あるいは象や猫も一定の個別の存在感を光らせている。だが極大と極小のコンビネーションが物語に緊張感とリズムを与えているーおそらくそれがどことなく「死」に繋がっているからだ。
作者の描きたいことと、変わった肉体を持つ人物像が、うまく一致しようと、物語のなかでひかれあっている。
そして作者はそれを(いくぶん一辺調子なところがあるものの)丁寧に描いている。

「死んだ人と話をするのなら、少年も得意だった。生きている人を相手にするよりずっと上手に話すことができた。産毛の生えた唇はもともと死者と会話するためにあるのかもしれない、と感じるほどだった」(p77)
「マスターを失ってから、リトル・アリョーヒンが最も怖れたのは、大きくなることだった。身長が伸びる、肩幅が広くなる、筋肉が付く、靴が小さくなる、指が太くなる、喉仏が出る…そうしたあらゆる変化の予感が彼を恐怖の沼に引きずり込んだ」(p126)
「ミイラは尊い犠牲の駒となるのだった。黒いクイーンをおびき出し、ビショップの守りを崩し、キングを孤立させるための犠牲だった。一つの犠牲が根となり、思いもよらない鮮やかな花を咲かせるような勝ち方を、リトル・アリョーヒンは最も愛していた。そしてミイラには、誰もが目を奪われる花弁より、地下に隠れた犠牲の根の方がずっと相応しい気がした」(p221)


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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


李恢成 われら青春の途上にて

韓国人の内側から(つまり韓国人のグループのなかに存在しているという前提のもとでの視点から)、その"ぬくもり"を描いている。それには、どこまでも、誰でも、結局は同じであることへの、疑いもない信用が、堂々と、提示されている(ときに恥ずかしくなってしまうくらいに・・・)。そこにはドライな描写がないのではなく、ドライになったとしても別種のドライな、あるいは他の作品で感じられるドライという観念そのものが成立しないような、気持ちになってくる。
韓国人の外側の人々も事象も描かれているのに、独自の関連性のあいだの親密さのようなものだけが、刻々と記されている。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


レイモンド・チャンドラー 高い窓

いつものチャンドラーから、「いきすぎた何か」が省かれた世界。いつもと同じくらいの枚数なのに、マーロウの走り抜けるトラックタイムがいつもより遅い気がした(それでも五輪出場レベル並に十分速いのだが)。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


トム・ジョーンズ コールド・スナップ

竜巻が去った後に空から色んなものが降ってくるように、散りばめられた、ときに互いに相入れない、強烈なイメージが、情報過多になるまで襲ってくる。しかも主人公達は、学歴があるか、もしくは世の中を(麻薬をやっていなくて筋肉で出来ている、という意味ではなく)タフに生き延びなければならなかった頭脳の持ち主たちなので、感覚は研ぎすまされている。
衝突があり、溶解があり、また成功があり、失敗がある。最後はハッピーなこともあり、バッドであることもある。
出来事と感覚の混ぜ合わされた極度の密度。そのなかに突然あらわれる底抜けな救い。作者はほとんど出し抜けに、実に文脈に寄っていないかのように(本当に寄っていないかどうかは不明だが)提出する。文脈無視のハイな救済感覚。最初は意味不明の極みのように感じられたものの、段々とこれらの短編を読んでいくうちに、やみつきになっていく。エンディングは暗くても、線香花火の最後の微光のようだが闇雲にやってくる、人々をとりこにする救済の幻想について、考えるようになっていく(そして僕なんかは、そういうことってあるんだろうなぁ、と妙に納得してしまう)。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


阿部和重 シンセミア(上)

このさらっとした、べたつかない感じはなんだろう?軽快に紙の上を駆けていく。ひとどころにとどまることがない。技のデパートのような物語。
Ooeか?Nakagamiか?はたまたAbeか??ーいやどれでもない。全てそれらを踏まえた上での、新しい創作だと感じた。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


パトリック・モディアノ 家族手帳

モンタージュの手法。一五の断章からなる、およそ二百ページ。主語はすべて主人公のパトリック・モディアノであり、自伝的なことが臭わされている。記憶が扱われて、様々な過去の地平が順序を乱して現れる。それらの相互は、主人公とその周りにいる数名で薄くつながっている。しかし、このつながりは文中で全く強調されていない。それぞれの断章は、それぞれの物語の構成上、完結しているものとして読み手は受け取るほかない。文体は小説そのもので、適正な省略法が用いられてくどくない。まさに手帳のように、スケッチのように、重要なことが書いた本人にのみわかる言葉で記されている、という風合で、一冊の物語としてのドラマ性や、それぞれの断章のつながりや、ヒーローのような登場人物、テーマ、といったものがなくても、小説を書いていける、ということを示してもいる。

それぞれの断章に出てくる(主人公とその家族以外の)脇役たちは、とても的確に特徴を与えられて、断章それぞれではきちんとした「重み」を持っている。
・祖国を捨て、太るがままにしようと決意した「でぶさん」(X)
・おじの「アレックス」は田園の水車小屋を不動産屋に問い合わせて訪問するが、実際は水車すらない想像外の物件で落ち込んでしまう。(XI)
・自分の亡き父について自伝小説を書くよう主人公を勇気づけるものの、しばらくして金持ちと連れだってしまう、恋人「ドニーズ」(XII)

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


フリオ・リャマサーレス 無声映画のシーン

過去の回想という形式から、記憶や時間(写真)というテーマを強く意識させられる。「ヴェネツィア」の作者、ヨシフ・ブロツキーを思い出す。
 「アルバムを、あるいは同じことだが時間の糸を、手繰っていくと、記憶がそのときどきの状況をよみがえらせる」 「一九六四年の夏といえば、ぼくがさまざまな色彩が存在することを知り、それとともにあちこち動き回るようになった頃だ」「が、それからオリューロスの町を出ていくまでの間に記憶は大きく膨れ上がり、少しずつ広がりと深みを増しはじめた」

この本の特徴は、「全てを読み終えなくても、その本質を理解できるのではないか」と思わせるところにある。
 5.一度だけの人生
 10.アラブ音楽
 11.顎の上の世界
 17.鯨の肉
 19.コンポステーラの楽団
 20.ストライキ
 21.国道のユダ
 22.タンゴ
 23.若葉
初読で気になった上記九章(この本は28の断章で構成されている)をメモしておいて、最後に今いちど読みなおした。このうち、17については、自分でも驚いたのだが、全く内容を覚えていなかった。それに対して、19~23は内容が割合連続して展開しており、読んでいて良いなぁとおもった点---町の風景・父親像・ユダと呼ばれている変わり者・お調子者といった、それぞれのイメージが焼き付けられた核のようなもの---について思い出すことが出来た。
恐れ多くも正直に言うと、決して読んでいて楽しかったり、驚きがあったり、切実さに身をふるわされたり、文体にうならされたりすることはなく、若かりし頃についての一定の見方が固定化された「回想」という風に読め、美しかったり、滑稽であったりはするけれども、スリリングさはあまりないように感じられた。それほどに安定した心境の上に成立しているがゆえに、こちら側の状況が、忙しくてどこか一章しか読めなくても、あるいは嫌なことがあって人生に疲れてしまっていたとしても、はたまた偶然に本屋で立ち読みをしただけだとしても、どういったときでも、同じような色合いを読者に与えてくれるのだろう(人が本を読む心境など、作者にわかるはずはないのだから)。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


三浦しをん まほろ駅前多田便利軒

ドラマチックであることによる読みやすさ」以上の何かの深度が、部分的にであれ感じられる。

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


小野正嗣 九年前の祈り

「丁寧さ」ということについて。
カナダ旅行と、大分の海によって束ねられた世界の出来事とが、重ね合わされる。それらは完全に一つの場所、一つの時間のなかに存在しているかのように描かれている。わずかなスペースでも区切られずに、そこにある。こういった文章によって、読み手は注意力を喚起される(僕にはそれは避けることができないことのように思える)。すなわち、「丁寧に読まなければ」というような義務感が、生まれてくる。その次に(感心させられるのだが)丁寧な読み方にも耐えられるように、丁寧にに編まれた文章が、そこにある。それは、論旨が破綻していない、客観的にみて完全に書きられている、という意味合いにおいてではない。
それは、一つのモチーフやイメージのようなものが、作者の分かりうる限りにおいて、決してあれやこれやと手を広げすぎることなく、確実に、嘘のないかたちで、表現されつくしている、ということなのだと思う。

だが、読み切ったとき、「これでおわり?」とも思った。丁寧に書きつづられてきた、母、父、カナダ人の夫やその友人、地場の女たち・・・それらが書ききられていないとも思う。永遠に語り続けられるべきものが、姿をあらわしつつあるという感じ。より大きな世界の予感が音を立てて鳴っているなかで、物語は終了する。結末のシーンは、唐突ではあるが、鮮やかに物語を閉じる。前提を限定したために綺麗にまとまってしまったというわけではなく、永遠に語り続けられるべきものの不確かな「におい」が充満しているなかで、「この作品において語られること」が丁寧に語られている。

PS:男性作家による女性(母親)の主人公像

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2015.05.29(Fri) - 書評 2015


ル・クレジオ 砂漠

(約1/3地点にさしかかったところで、読み進めることを断念)


2015.05.29(Fri) - 書評 2015


ナム・リー ボート

(書評なし)


2015.05.29(Fri) - 書評 2015


羽生善治 闘う頭脳

(書評なし)


2015.05.29(Fri) - 書評 2015





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