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※このカテゴリーでは、

(李海仁)이해인『오늘은 내가 반달로 떠도』 1983 より、計23編を訳出しています。

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2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


2014/3/31 更新情報

いつもご愛読ありがとうございます。
新作発表です。


「詩と作文 2014」
計二作を追加しました。

 グレイハウンド
 遠くへ投げたい


「釜山 2014」
計六作を用意し、新生しました。

 해 은 대
 삼 게 탕
 정 류 장
 녹 전 탕
 커 피 숍
 떡 볶 이


「今日は 私が 半月で 浮かんでも」
(李海仁)이해인『오늘은 내가 반달로 떠도』 1983 より、計23編を訳出し、新生しました。

 詩人は
 私を 呼ぶ 君
 修道女 1
 修道女 2
 君と 私は
 ブランコのり
 海鳥
 今日は 私が 半月で 浮かんでも
 春 便り
 あなたの 森 なかで 1
 あなたの 森 なかで 2
 ちびた 鉛筆
 カタツムリ 歌
 鐘の音
 ボタンを つけるように
 清掃 時間
 皿洗い
 洗濯
 ある 朝
 涙
 病床 日記 1
 病床 日記 2
 風の 詩




2014.03.31(Mon) - 更新情報


詩人は


どこでも 扉 あけて

たったひとつの 言葉

探しに でかける 人よ


雪 降る だれもいない 森の 冬の木のように

春を 待ちながら 目を覚ましている 人よ


心 落ちつく 言葉の いえは ない

ときには とんでもない ところで

巣を つくる 鳥よ


楽しい 一日でも

少しばかり 調子がわるいようで

心 いためる 人よ


眠りを むさぼりながら

完全には 眠ること なく

詩の 腕を 枕にして


今日も

つらい 巡礼者よ


2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


私を 呼ぶ 君


登る ときは わからなかったのに

下りてきて 見あげたら

けっこう 高い 山を 私は 越えたんだな


渡る ときは わからなかったのに

また渡ってきて もう一度 見たら

けっこう 長い 川を 渡ったんだな


今は 気楽に 休むことだけ したい

二度と

発たない ことにしたのに


ああ 君


それでも

うごく 山

くねる 川


私を 呼ぶ





2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


修道女 1


だれの 妻でも ないけれど

だれの 母でも ないけれど

愛する 仕事に

命を かける おんな

その 仕事が 思いどおりに なら なくて

恥ずかしい いらだちを

一生の こぶのように かかえて 生きる おんな


漂白された 洗濯物を 干す

前掛けに いっぱい 空を いれて

ひとりで 野花のように 笑って みる おんな


ときには 孤独の 塩 かごを

頭に のせて

素足で 白い 砂浜を

駆けていく おんな


だれが 何をいおうと

彼と ともに 生きてくことで


世界すべてが 君の ものだと 忘れること なかれ

すべての 人が 君の 兄弟だと 忘れること なかれ



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


修道女 2


大も 小も 甕の なかで

誰にも知られず 熟して いく

醤油 味噌 辛子味噌


ときが くる までは

狭苦しくても

隠れて 生きる こと しってるよ


修道院は

ひとつの ばかでかい 甕置台


君も 私も 静かに

甕 なかで はきだす

それぞれの 香りと 色


ときには 溜息つきながら

ときには 歌いながら


自分の 味を だす ときまでは

暗闇 なかで 熟して るよ

たのしく 待ってるよ


2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


君と 私は


まわっても 限りない

まるい 世界


君と 私は

日夜を ともにする

ふた つの 時計針


君が 長いなら

私は 短く

君が 短いなら

私は 長く



愛で 釘 さしたなら

戻すこと でき ないな


互いを ささえあう 円 なかで

光に 向かって 眼 あける

宿命の 伴侶


一瞬でさえ

休む 暇が ない

君と 私は


永遠を チクタクとする 

ふた つの 時計針



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


ブランコのり


愛は

ブランコのり


あなたと 一緒に

風に のって


とおくとおく 進みゆく

この世の たえまない 身振り


歩か ないで 走っても

愛は いつも

足りない 時間


もっと 高く

飛び たいよ


波たつ 恋しさ

足を 踏みならしたら


胸に 染まりくる

痛い 空 いろ


あなた



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


海鳥


この 大地の どの 場所

だれにも 心 寄せる こと できず

海へ きた のか


多 すぎる ものごと 見 たく なくて

聞き たく なくて

ここまで きた のか


多 すぎる 言葉を

喋り たく なくて

ひとりで きた のか


ああ どうやって 説明しよう

だれにも 見つから ない

この 小さい 胸の 炎


水 うえに とまって

静かに 冷まし たくて

海へ きた のか


若布のように みずみずしい 哀しみ

波に 流しながら 生きて いたくて

海へ きた のか



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


今日は 私が 半月で 浮かんでも


手 冷たい 木の 枝 先に

ひとりで 腰かける 風 のような

命の 色彩


あなたの いない 空 うえに

今日は 私が 半月で 浮かんでも

満ちていく 光


雲に 隠れても

笑み 絶や さず

妹のように やわらかい 月光に なる


葉が ひとつ 残ら ず

私の 庭には 風が 冷たく

心には 火が つく 冬の日


光が あるから

ひとりでも

豊かである


清く 高く 生きる すべを

光で 波打っている

冬 半月だ



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


春 便り


真白い たんぽぽの 種 なかに

風で 隠れて いておいで


名前 ない 草むらから

小さく咳こむ 野花で いておいで


雪に 覆われた 川 底を

流れる 水で いておいで


くちばし 美しく 薄緑色 山鳥の

歌と 一緒に いておいで


毎年 私の 胸に

見え ずに 生きながらえる 春


チンダルレ つぼみのように

痛く 腫れ上がる 恋しさ


言葉なく 破裂して

私に おいで

 


2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


あなたの 森 なかで 1


あなたの 森 なかで 私は

どんぐりくらいの 喜びを 拾って

心も 熟して ゆく

いっ ぴきの 浮かれた 栗鼠


ときには まんまるい 祈りの 卵を うみ

長くいつまでも 胸に かかえて おく

いっ ぴきの 情のふかい 山鳥


あなたの 森 なかで 私は

熱心に 家を たてる

いっ ぴきの 孤独な 蜘蛛


そして ときには

どんな 小さな 恩寵の パンの きれはしも

落とさ ずに とりいれる

いっ ぴきの 感謝する 蟻



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


あなたの 森 なかで 2


ある 朝には

一編の 叙事詩で いきていらっしゃったが

ある 晩には

一編の 抒情詩で いきていらっしゃって



ある 春には

幻想の 流れる 抽象画でいらっしゃったが

ある 秋には

轟く 色の 東洋画でいらっしゃって


ある 夏には

海の色 交響曲で いらっしゃったが

ある 冬には

真白な 雪の色の 歌曲で いらっしゃって


たえまない 言葉と

たえまない 色彩と

たえまない 声で


あなたが 生きている

あなたの 森 なかで



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


ちびた 鉛筆


とても 小さな

手に 握 れ ない 鉛筆 ひと つが

だれかが 使い 残した この とるにたらない 切端が

どうして こう いとおしいのだろう


欲を もたなければ

ばか とされる この 世の中で

すべて 与えることだけ して

傷ついて 削られて きたんだね


代価を 求め ない

清らかな 消滅を

その 素朴な 宿命を

みならい たい


軽い 言葉を 捨て

真実だけ 表現しながら

あなたのように 黙々と あり たい

黙々と 痛くあり たい



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


カタツムリ 歌


雨 ふる 日は

私を そわそわ させる


石段 うえで

夢を ひろげて

葉に ついた 雨粒も なめて

生きる こと 楽しい


まんまるい 家 なかに

体を 深く 隠しても

心は 閉ざさ ない


いつかは ほどく ために

巻いておく 私の 夢


ひろい 世も

人間たちも

ずっと よく 見える

雨 ふる 日


雨粒 先に 宿る

祈りの 真珠 ひとつの 卵


美妙な 家 なかで

隠れて 住んでいても

いつも 幸福だ



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


鐘の音


おきろ

おきろ


耳 あっても 聞こえず

哀れな この人々

胸に 鐘を つるして

さあ おきろ


君と 私を

あのお方 いえへ 招く

あの方の 声


眼 あっても

先 みえ ない この人々が

半分 死んで いた

自分の 霊魂と 出会うように

自分の 隣人と 出会うように


風を かきわけて

叫んでいる 声


人に 失恋した

神 声



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


ボタンを つけるように


落ちた ボタンを

元の場所に つけて いる

私の 手の甲 うえに

にっと 笑って いる 美しい 陽光


今日という 新しい 服 うえに

私は どんな かたちの ボタンを つけようか


生きるという ことは

たえまなく 新しい 服を 着替えて

落ちた ボタンを 元の場所に つけるように

平凡な 事象の 連続だろう


丈夫な 糸を 針に 通し

ひとつの ボタンを つけるように

自分のありかを 探して 生きていかなければ


みている 人 いなくても

むやみに 生きて しまう ことは できない


私の 生を 確認しながら

ボタンを つける この 時間


それほど 面識のなかった 幸福が

近くで 笑って いる



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


清掃 時間


前掛けで うけた

水気の にじむ 朝

私の ふたつの 手は 熱心に

捨てる ものを 探して いる


日々

ほこりを 掃いて 拭く ことは

私を 掃いて 拭く こと


ほこりの たまった 心を すっかり 雑巾がけし

寝て しまったら また 積もる

ひと にぎりの 新しい ほこり


恥じらいも そのまま 受け入れて

私と 似た ほこりを

すみずみまで 掃いて 出す


くず入れに 紙を 捨てるように

私の しわくちゃになった 考えどもを

未練 なく 捨てる


捨てる ことで 私を 探し

ふたつの 手で 雑巾を 絞る

新しい日の はじまりだ



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


皿洗い


生きて 朝を むかえて

また 夜を おくりだすように

生きて 飯を 食べ

器を 片づける


大も 小も 空の 器に 盛られた

私の いちにちの 言語と 思考を

楽しく 整頓する 時間


欠けた ものは 別に 移し

割れた ものは 捨ててしまい

再び 出あう 私の 姿


布巾で 器を ふき

食器棚に 入れるように

失った 秩序を まとめて

心のなかに 重ねて 入れる


器を ふいて

生活が 歌に なるように


熱心に いちにちを 片づける

私の 手先から

銀色に 光っている

明日の 希望



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


洗濯


今日も

洗濯を する


服に ついた

私の 体温を

しみついた 時間を

ゆすって 洗う


石鹸 泡 なかから

何も 言わずに 消えていく

私の きのう


水に なって わきたつ

真白い ときめき


再び 洗礼 受け

陽光 なかに さらし たい


私の 魂を

ぎゅっと 絞って ゆすいで 乾かす



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


ある 朝


夜中 散らばった

闇の きれはしを

布巾で 拭き きって


清潔な 食卓に

希望を 準備する


器が ぶつかる たびに

胸にも かたかた音がする

あの 笑い声


向きあって 座る 家族の 眼 なかから

愛の 言葉を きりだして

糧と する

ある 朝



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも




新たに 芽がでた

私の 愛の 草むらで

うかぶ 涙


私を だます ことは できない

ひと 束の

正直な 花


あなたを 呼ぶ 声のように

切実な 色で

嬉しい とき 悲しい とき 咲くよ


しみるまで 痛みが やってきても

従順に 溶けてなくなる

白い 花の 香り


涙は そのまま

祈りに なるよ


芯から 流れる

音楽に なるよ



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


病床 日記 1

病の とき

私の 一日は

灰色で 臥す

思考の 海


その 海 うえに

祈りの 船 一 隻

浮かべようと しても


船は 浮か ばず

しずんでゆく ゆううつな

破片さ


しつこい 闇の 手に

私が つかまえられて

必死に もがく 声


面識のない 誰かが

私を 連れていく 声



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


病床 日記 2


新しく 洗い

糊 づけをした 一重の掛布団

真白な 孤独を おおう

私が 臥して いる 部屋 


その 誰も

来 ない 今は

私が

私と 近づく 時間


苦痛 同時にまた

祝福であるように

祈ってみるが


しおれた 花を 捨てるように

私は しきりに

再発する 痛みを

捨ててばかり したかった



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


風の 詩


風が ふく

私の 魂に

火を つける 風


永遠を 約束していた

君の 青い 声も

風で 巻きついて くる


海 なかで 誕生した

私の 名前を 呼ぶ

私の 首に 巻きつく 風


この世の 光と 闇 あいだを

今日も

風が ふく


あなたを 知らなかったら

あまりにも 果てしなくて

私が なくなってしまう 世の中


この 心に

寂寞とした 火を つけて

風が ふく


君が 風だから

私も

風に なる 喜び


夢を みる 風で

道を ゆく 風で



2014.03.31(Mon) - 今日は 私が 半月で 浮かんでも


떡볶이

「ねぇ、私、トッポッキが食べたいわ」
三日ぶりに妻が話しかけてきたので、僕は心底びっくりしました。
「そうだね。買ってくるよ。たしか九時にはあいてるよね。」
冬でした。僕は部屋着のうえにそのままダウンジャケットを着て、靴下を手にもちました。洗面所に行って、電気シェーバーを顎にあてました。顔がそのせいで歪んで、唇の左右や下の肉が片方に引き寄せられました。剃りおえたあとに笑顔をつくってみると、凄く笑うことができました。
僕はやっぱり嬉しいんだな、と思いながら、靴下をはいて靴をはいて、外へ出ました。
外には雨が降っていました。もう一度、エレベーターに乗って戻りました。
「雨が降ってるよ。なんてことだ。」
 妻の返事は特にありませんでした。
 傘をもって、小走りで坂を下っていきました。自分が住んでいるところと、別の団地のなかを通っていきました。そのほうが近いのです。むかし妻がその道をみつけたのです。やっぱり感謝しないといけないな、と思いました。
 トッポッキ屋は、大きな通りをはさんだ向かい側にあります。大体あそこらへんまで行けば店が見えるなと、場所を思い浮かべながら、坂を下っていきました。
ですから、なんだか店が暗くて、閉まっているのかなと疑い、それから横断歩道を渡って、実際に閉まっているとわかったときは、ショックでした。

僕は待つことにしました。他の店まで買いに行こうかとも思いましたが、しませんでした。僕たちがトッポッキと言えば、ひとつしかないのです。シャッターには閉店の紙も貼られていませんでしたし、閉店の曜日も書いてありませんでした―なんだって今日休まなきゃいけなかったんだ。普通の平日の朝じゃないか。
店長は人当たりのいい、三十才か四十才の男でした。僕は彼の接客の様子を見ているのが好きでした―食べ物もいいし、働いている人もいいし、看板や袋のデザインもいい。そういう店って、なかなかない。
店の前でずっと立って待っているのは退屈ですから、歩き出しました。街区のまわりを一周、その隣の街区のまわりを一周、コースを変えて歩いて、少なくとも五分おきに、店の様子が確認できるようにしました。時々、足をとめて煙草を吸いました。車が坂につくられた凸凹の道を何台も通り過ぎていきました。建設中のアパートで工事作業の音が鳴っていました。時計も携帯電話も持ってきませんでしたから、薬屋に時計がかかっていて、外からでも時間が確保できる場所を見つけたときは嬉しかったです。すぐに九時がやってきて、十時になったら開くかなと思った十時も、過ぎていきました。十時半にもあきませんでした。もうあきらめたほうがいいのかな、と何回も思いました―家に帰って白状してしまおう。ごめんなさい。嘘をついていたのは僕でした。
いや、待ってみよう―十一時になったら開くかもしれません。たとえ急な休みだったとしても、店に何かの用事があって、車で立ち寄るかもしれません。忘れ物とか、調理機器のオーバーホールとか、そういうこともありますし…それに差し出された和解の手を、握り返さないわけにはいかないではありませんか。
ある時、歩き続けるのもしんどくなりました。僕は傘を閉じて、大通りから離れた一件のコーヒーショップに入りました。そこから見ると、店を裏側から見ていることができるのです。クリスマスツリーに絡み付ける電飾コードのようなカラフルな発光体が、テラス席の柵に絡み付けられていました。水分補給をしたかったので、こんな天気なのにアイス・アメリカ―ノを注文しました。店がよく見える席に座ると、半分くらいをすぐに飲んでしまいました。コーヒーショップでは母と娘の二人の女性がカウンターのなかにいました。他には一人も客はいませんでした―こんなにみんな働いているんだから絶対に休日ではないはずだ。足の裏の痛みを感じながら、することもなく、ずっと店のほうを見ていました。
一二時を過ぎたころ、店に明かりがともりました。残りを飲み干して、すぐに外へ出ました―そらみたことか。開いたじゃないか。開いたじゃないか。全く。そらみたことか。
店に着くと、男がいつもの通り立っていました。
「いらっしゃいませ。」
「トッポッキひとつ、天ぷらひとつください。」
「食べていかれますか?」
「…あの…持ち帰りはできますか?」



2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


커피숍

「なんで私だけ…ひどい」と、知らない間にメールが届きます。それにどう返事をするべきか、僕は考えています。「私、何度も、ほらあの交差点でだって、写真館に行く途中のあの交差点…二回写真館に行ったとき、あわせて四回も、私のっほうを見たじゃない。一度くらい、よかったんじゃないかしら」
 面倒なことになりました。だから僕は今、どこの店にも行かず、家で自分で抽出したコーヒーを飲みながら、机に腕をのせて、考えあぐねています。

 たくさんのコーヒーショップがこの町にはあります。そのうちで、はっきり僕が入りたくなったものは、以下の六つでした。
・The Coffee Bean & Tea Leaf
・Starbucks Coffee
・EDIYA COFFEE
・CAFFEE BENE
・CAFFEE PASCUCCI
・珈琲物語
 これらには全て行きました。また、僕がはっきり入りたくなかったものは、以下の三つでした。
・TOM N TOMS COFFEE
・Angel-in-us Coffee
・A TWOSOME PLACE
 これらのうち、A TWOSOME PLACE以外の二つには行きました。A TWOSOME PLACEには行きませんでした。もちろん上の九つ以外にもコーヒーショップはあります。
 珈琲物語以外はチェーンですから、歩いていると、「また会ったね」と、眼に声をかけてきます。それでも僕はA TWOSOME PLACEには行きませんでした。無視を決め込んでいました。嫌なやつです。
 A TWOSOME PLACEはかわいそうです。少ししょんぼりしています。横断歩道の端のほうで、ひとりだけ離れて、携帯電話をいじっています。

 A TWOSOME PLACEの看板の白い文字の近くには、小さいサイズのフォントでDESSERT CAFÉと書いてあります。そして入口の脇には、遠くからでもわかるように、何種類かのデザートの写真が、大きく掲示されています。僕にはそれが、なんだか嫌だったのです。
 The Coffee Bean & Tea Leafは、他店に比べて特にコーヒーがおいしいと、どこかのブログで読んだから、行ってみたのです(実際とてもおいしかったです)。Starbucks Coffeeは、知り合いに大量の無料クーポンをもらったので行ったのです(どんなサイズ、どんな種類でも構わない、夢のようなクーポンでした。)。EDIYA COFFEEは家の近くにあったので、CAFFEE BENEはスーパーの近くにもあり、とにかく機会があって、色々なところで行きました。CAFFEE PASCUCCIは、オリジナルのタンブラーがみてみたかったので、行きました(割とよさそうではあったけれど、結局買いませんでした。それでタンブラーをみただけだと何となく不充分な気がしたので、ホットのアメリカ―ノを注文しました)。珈琲物語は、この町で初めて行ったコーヒーショップで、なんと一六回も行きました(ふだん僕は回数なんて覚えていないのですが、手元にスタンプカードが残っているので、そしてそれを行くたびに押してくれたので、はっきりとわかるのです)。
 TOM N TOMS COFFEEは、ICに入っていた店がそれしかなく、しかも親戚がコーヒーを飲みに行くのについていっただけです。Angel-in-us Coffeeも、同じようなことです。大体コーヒーショップがありそうだなと思って探していると、それがこの二つのどちらかだったりするわけです。そして何回もそんなことが続いていると、誰かに連れられて行ったり、休みたい衝動に負けられなかったりして、結局足を踏み入れることになります。しかももっとたちの悪いことに、入ってみるとそのときは機能的に困ることはないのですが、やはり僕が普段欲している機能は、やはり満たしてくれないのです。

 A TWOSOME PLACEのほうをちらりと見ますと、思いもよらず、言葉にならないつぶれたような笑い声を残して、先にどこかへ行ってしまいます。
 しばらく僕も歩きます。横断歩道を渡ってオフィス街を歩きます。ずっと下だけを向いて、コーヒーを飲みながら何と言おうか考え続けています。最後にそして、メールを送ります。
「TWOSOMEでDESSERTだから、ちょっと場違いかと思ったんだ。何しろひとりで煙をふかしながらゆっくりしたかったから、遠くから見て、これは違うかなと思ったものは選択肢から外していたんだ。
確かに実際には見ても飲んでも聞いてもいない。君の言う通り、一度くらいはよかったのかもしれない。でもあまりいいことではないとわかっていながら、僕は本を表紙だけ見て、読むか読まないか判断したりもする。正直なところ、女の子を見て、スカートの丈の長さで見たり見なかったりする。深く考えず、TWOSOMEでDESSERTな人のための場所なんだな、そういう人たちがたくさんいるんだろうなって、思っていたんだ。TOM N TOMSもAngel-in-usも似たような話さ。別に彼らが特に好きだったってわけじゃない」
「他のところだって同じだというの?」返信が来ます。
「似たようなものだよ」間髪を入れず、僕はこう返します。
 けれども、それからというもの歩いていてA TWOSOME PLACEを見つけるたびに、それはますますA TWOSOME PLACE以外の何でもないように、僕には感じられるようになってしまうのです。


2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


녹전탕

木曜日の二時過ぎに、五千ウォンを払って鹿島湯に行きます。他の時間に他の銭湯にはいきません。なぜなら心が混乱してしまうからです。同じ時間、同じ建物、同じ混み具合。同じロッカーなどであれば、なお望ましいのです。とつぜん旅客機のように墜落する心配もありません。地震もありません。
待ってください―このもうひとりの僕の掛け声は、考えを改めさせることになります―心配がおそってくる場所がひとつだけあります。サウナです。松明がはじけるような音をだしたり、とつぜん植物臭のスチームを出したりする、密室を高温にする機械。あれだけは今この瞬間に爆発してしまうという不安をぬぐいされません。フィンランド・サウナとスチーム・サウナは地上五階建てのラーメン構造の一グリッドのなかに、設備機器もろともおさめられています。二つを隔てる間仕切壁には、ガラス製の室内窓があり、お互い裸になった男だけの世界が見えるようになっていますが、何の設計意図かとかんぐってみますと、やはりこの唯一の不安である、配管の決定的なつまりや、耐用年数以上の運転によるほころびに端を発した空間の消滅をまぎらわすために、違いありません。わざわざフィンランドと名付けてみたり、室内を板張りや岩張りにして装飾したりしているのも、同様の理由であれば説明がつきます。座っているときには彫刻像のように美や厳格さをたたえている男の裸体も、爆発後の光景を想像すれば、その落差がはっきりしてくるでしょう。思わず機械のスイッチをさがしてしまいたくもなります―この唯一の、不安をいっしんに背負わされている二つの部屋をのぞけば、浴場はかなり解放的です。この国では前を隠す手ぬぐいが不要なので、置き忘れや盗難や紛失による捜索といったことは、ロッカー・キーについているバンドがちぎれでもしない限り、ありえません。ですから、湯に浸かったり、体を洗ったりする空間は、ブルーグレーのタイルで統一されて、無装飾なのです。温度表示の赤い発行文字ぐらいでしょう、意味を押しつけてくるのは。この国の言葉がわからないというのも、あながち悪いことだけではないのです。
サウナを出て、新鮮な水を肩に思い切って浴びせます。それから迷うことなく、水風呂に浸かると、寒暖の差だけではない、爆発死から逃れたという喜びもあいまって、一種の桃源郷であります。誇張のしすぎだと思われるでしょうか。ですが、それは説明をもう少しさせていただいたあとに、判断いただければと思うのです。というのも、この銭湯論に不安がないわけではないのです。多少の装飾過多による不安の払拭は、今は大目にみていただきたく存じます。
さて、“中”水風呂では水泳がされたり、ストレッチ運動がされたりしています。同時に、じっと、ゆっくりと浸かっている人もいます。浴槽の大きさは、二グリッドより少し小さいぐらいでしょうか。あくまで目分量ですが、浴場全体は、五×五、五×六の計二五~三〇グリッドのようですから、かなり大きな割合をしめています。湯温はプールより少し低いぐらいです。実は鹿島湯には、もうひとつ“小”水風呂があって、こちらは超低温で三畳ほどの大きさです。いわばこれが川の最上流、湧き水の出る新鮮な源のような雰囲気をただよわせているのに対して、“中”水風呂は蛇行の途中の巨石の間にできた、水流の溜まり場のような場所です。“中”水風呂の上には、トップライトが設けられていますが、その形状は平凡な切妻型で、陽光そのものを提供しています。そんな具合ですから、僕も頭まで臆面することなく潜り、数個のあぶくを鼻から出すことさえ、容易にできてしまうのです。水深の浅さから立つというよりは、どちらかといえばやはり座って使うというような恰好であること、また平泳ぎをするにしても、一かきで大人ならば確実に反対の短辺まで到達してしまう点が、プールに堕ちていない、人工的でもあり自然的でもある、また別の由縁でしょう。
大体においては気遣いというほどのものはなく、渋滞でバンパーをぶつけないくらいの意識があれば、あとは自由にしていて差支えありません。専用の洗い場に行って、セルフ・垢すりに混じるのも結構です。体勢というものは実に自由であるということが、よく分かります。ですが、一つ真似ができそうもなかったことがあります。
中央に高温・低温それぞれ一グリッドずつ、計二グリッドの温泉浴槽があるのですが、そのまわりの通路にあたる部分に、人が横になって目を閉じています。どうやら川原の石の上だと思い込んで、眠りについてしまったらしいのです。そこからみれば、古いオフィスビルをぎりぎりでかわしてつくられた高速道路よろしく、人々の足という足が自分に当たりそうになるのがかんじられるはずです。それにしても、一度たりとも蹴られたりしたことが…騒動がもちあがって、浴槽脇寝禁止令などが発せられたことがないのでしょうか。いや、不法占拠などといったら、せっかくの桃源郷が台無しです。それぞれが五千ウォン分の重さの、不安からの解放地帯である以上、蹴ってしまうかもしれないという、一人一人のわずかな眼のつぶやきを、極大にしてしまう理由は、ないのです。


2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


정류장

 停留所に毎朝行ってバスを待ちます。誰もかもがそこではバスを待っています。朝は利用する人数が多いので、停留所の建造物の外にあふれだしています。スマートフォンをみている人が一番多いです。電話をしている人もいます。何もしていない人はたいてい音楽を聞いています。僕は一番やってくるバスがみえずらい場所、つまり一番人気のない場所に立って、彼らをみています。バスを待つこと以外に、皆、何かをしています。この停留所には到着時間を知らせる電光掲示がありません。あの町の市内にいくバスにのる人は多く、おおむね十五分間隔で運行されています。この停留所には三路線、あの町の市内にいくバスがとまります。あとは何種類かの市内バスがとまります。しかし、停留所には時刻表は貼り出されていません。細かいことを知りたいのであれば、スマートフォンで調べれば、リアルタイムで、それぞれのバスの現在位置がわかります。それでも、それは韓国語ができなければ、自分でみつけ出すのは難しいでしょう。停留所に外国人サービスセンターがあるわけでもありません。乗るバスの路線番号さえ知っていればなんとかなります。あとは方向さえ間違わなければ大丈夫です。だから停留所は最低限の情報を与えます。路線番号と、その大まかな行き先です。駅名は小さくしか書かれません。囲いとベンチがあって、風をさけるために寄りあって、囲いのなかはバスのなかより混み合っています。ベンチにはみんな、あまり座りたがりません。そんなことをしたら、やってくるバスの番号がみえないからです。
 バスはひっきりなしにやって来ます。ただ目当てのバスは、確実に十五分間隔でしかやってきません。あっても二分早まるか遅くなるかです。雪の日や訓練の日は別だとしてもです。朝は全てのバスが停留所にとまるから安心です。扉がやってくる前から、誰もかもが、自分のとまってほしい位置に立って、運転手をみつめます。決まった場所はなく、バスは囲いの五メートル手前にとまることもあれば、三メートル先にとまることもあります。そして、たとえ僕の目の前にとまったとしても、すでに何人かが僕と扉の間にいます。扉に並走して、はやい者もおそい者も、みんな扉のまわりにくっついてきます。決して列にはなりませんが、扉のステップに足をかけるときには、必ず順番ができます。それがバスと停留所の境界です。この列にならない群衆のなかでの心理は、それは複雑です。マナーがあるとも言えませんし、ないともいえません。ということはそこに固有のマナーがあると考えるべきなのでしょう。明らかな割り込みは誰もしませんが、横から入り込むのは、されることもあります。押したり無理やりということはなされませんが、とにかく一目散に扉の近くに陣取ります。扉が開くまでに、最初のほうか、中間か、最後のほうか、すでに形勢は決まっています。あとはひとつふたつ、順位が変わるだけです。そこには、どちらにしろ座れるだろうという思惑や(現に座れるくらい席はたくさんあるのですが)、スマートフォンをみていたから遅れちゃったというようなことはほとんどありません。全員がこの小さな競争に参加するのです。
 停留所にはこういった小さな熱情のかたまりがあります。だから二人しか乗る人がいなくても、みんな急ぎます。体がなれてしまうと、たとえ一人で待っていても、この週刊が身についてきます。目的の番号のバスが来たときだけ、運転席のあたりに眼の奥から視線を注ぎます。生半端な視線だと、停留所にとまってくれないような気がします。そうしない勇気など、僕にはありません。もっと逆説的な例もあります。そこが停留所ではなくても、やりかたによってはバスに乗ることができます。赤信号の前でとまっているときに扉をたたいたり、ゆっくり走っているときに並走してサイドミラーごしに姿を反射させたりする人がいます。すると扉がひらくことがあります。バスは停留所ではなく、運転手がとめたところにとまるのです。あるいは、一定量の熱量があれば、そこはどこでも停留所になるのです。それは若人が、とか老人が、とかは、あまり関係がありません。一度あなたも試してみてはいかがでしょうか―ただし、手をあげたりしてはいけません。そんなことは誰もしません。それはアピールだからです。扉まで、なんとかたどり着くようにしてください。バスはタクシーではありません。停留所にとまるものです。



2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


삼게탕

 この町でサムゲタンを食べたことはありません。でも僕はサムゲタンが大好きです。妻が作ったものが大好きです。それが理由でこの町で食べたことがないわけではありませんが、大好きでも特に食べたいとは思わなかったのです。少なくとも今のところはです。もしかしたら明日、とつぜん看板を急に眼が探し出すかもしれません。ガラガラと半透明の引き戸をあけて、食堂へ入っていくかもしれません。でも、おそらく食べません。僕にとってサムゲタンは自分から食べに行くものではなく、向こうからやって来るものなのかもしれません。探しに行ったサムゲタンを想像するだけで、食欲がなくなります。白い鶏肉が、胃液と混ざった白い液体となって口から出てくる予感がします。
 僕はとても個人的なサムゲタンにまつわる考えについて述べようと思います。今までの話はあくまで導入にしかすぎません。その個人的な体験を文章にすると、次のようなものになります。
「サムゲタンが教科書に出てくると、またか、というデジャ・ヴの観念におそわれる。頭がくらくらし、軽いはき気を覚える。」
 これは僕をいくどもともなく揺さぶり続けてきた体験です。しかし今まで有効な対策を考えたことなんて、ありませんでした。だから一種の錯覚だと考えてきたわけです。ハードワークしすぎて、ちょっと疲れているのかな、という具合です。
 ところで、とつぜんですが、妻はサムゲタン作りが妙にうまいのです。ここだけの話ですが、はっきり言って彼女の料理は雑です。餃子や魚が焦げないかいつも不安です。少しでも指摘すると、例えば、「この麺はもう少しゆでたほうがよかったんじゃないかな」などと言うと、間髪を入れずに「だって」という言葉とともに、言い訳がはじまります。でもサムゲタンの場合、そういう不安は全くありません。僕はそれが食卓のうえに運ばれてくるまで、ゆっくりとテレビをみていられます。チャンネルを変えながら(僕のなかで)最終選考に残ったどうしようもなくつまらない番組のなかで、なんとか面白さをみつけようとするほどの余裕があります。
 話がそれてすみません。教科書のなかのサムゲタンに話をもどします。授業を聞いていると、先生が「次のページ」と言います。僕は他の学生の紙をこする音を聞きながら、ページをめくります。何も考えずに。何も恐れずに。するとそこにサムゲタンの写真がのっています。文字通り僕は、息を飲みます。時間は(僕のなかで)とまります。表情はおどろきのあまり固まります。強烈な状況の再来感とともに、万感の追憶の触手が一気に過去の教科書にあらわれたサムゲタンの肖像を探します。ただそこには何の手がかりもなく、またか、という途方のない高揚の調べだけが残ります。
 事実、僕は何回も教科書のなかでサムゲタンに遭遇していたのでしょうか。それとも教科書とサムゲタンの間には、何らかの再来感をよびおこす化学反応があるのでしょうか。いずれにせよ、今回こうやって記録を残したわけですから、前者の可能性については、検証が可能になったわけです。
 でも…この文章を書き始めてしまったことに、何かサムゲタンにたいする裏切りの気持ちを感じてしまうのはなぜでしょうか。吐き気や頭痛がやってきそうな予感がします。もしかすると教科書のページを無心でめくる日はもう来ないかもしれません。与えられるべきサムゲタンを追いかけてしまった、僕が、やはりいけなかったのでしょうか。


2014.03.27(Thu) - 釜山 2014





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