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「カンバセイション・ピース」 保坂和志

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中学以来の友人で文学に詳しそうな畑山の薦めで一昨日出会った本。神保町三省堂書店にて新品を購入したときは結構な大作かと思うも、案外すんなりと読めて、久々に、小説によまさせられた感覚をあじわうことができて、しかもそれも自発的に読まなくてもいい楽な状態が最後まで続いて、心地よい興奮がいまも残っている。

主人公高志(作家)の、1つの家に住む数人の同居人たちや数匹の猫とのコミュニケーションと、友人2人との横浜球場での野球観戦と、絶え間ない自問自答と。内容はこの3つしかなく、交互にそれらがでてきては消えてゆく。身のまわりの会話や、昔家にすんでいた伯父伯母や、猫の生と死や、ベイスターズの応援賛歌や、あらゆる自問自答の中で高志は時にひとりごち、時に周囲としゃべりながら、世界の見方を固めていく。そんな日々だらりとすごしているように見える高志の得体の知れない強さが伝わってきて、読み手としても真剣に対峙するしかない。

最初から、夏目漱石と中上健次を足してニで割ったような感じを受けたけれども、それは猫がでてくるのと、文体がだらだらかかれているからというほどの意味ではなくて、日常に対する斜にかまえているが教養のある落ち着いた(良くも悪くも)態度と、そこらへんで走り回っている猫や昔家に住み着いていた人々の行動と、自分の頭の中の観念なんかがごっちゃになって想起されるような思考回路が実にうまく文章化されている巧妙さみたいなことにおいてである。

そんな巧妙さやしたたかさもあるが、それとは違う側面で、この作家は一軒の家と野球場という建物を選択している。高志は家では猫にしか目がなく掃除も洗濯も料理もしないで小説も書くわけでもない中年であり、野球場ではアンちゃんのように野次をとばしビールをあおる一ファンである。そういう確固たるスタイルは、2つの建物と共に作り上げてきたものとして解釈され、2つの建物は非常に強い力を持つもの(たとえば1元化させる力であり、可能性を終焉させる力)なのであって、決してあがらえないものとしての何かを認めるにいたる。しかしそれが常に現実の「カンバセイション」にフィードバックされているために、神聖化も幻想化もしないところが「ピース」である、といった感じを受ける。
例えばここで僕は鈴木博之のいうゲニウス・ロキを思い出す。土地に性癖のようなものがあるという1元的仮説とその歴史的あらすじの紹介は、このような注意深くモノを見続けるうちに結局生を続けてしまわざるを得ない人類に、建築史という事実に立ち返る分野から回答をあたえたのだと思う。

とりあえず、2章最後、4章中盤、5章最後の自問自答が印象大。また、最終6章においてこの小説は、流れの変化の絶妙さをもって終決させられている。かむほど味がでそうなハモンイベリコ的一冊。

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2009.12.29(Tue) - 詩と作文


「ヘブン」 川上未映子

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昨日テレビを昼下がりの1時くらいに見ていたら、若い作家の女子が出ていて、それが川上未映子だった。即座に近日(といっても2、3ヶ月前だが)読んだ「AMEBIC」や「蛇にピアス」の金原ひとみを思い出した。それらがよかったこともあって、若い女流作家は気になる存在だったけれども、さらにその番組を見ていると、彼女が少しばかり変な雰囲気を持っていることがわかった。

それは、モノはいったいどこからゴミになるのか、というものであって、モノはゴミ箱に入るとゴミになるがではどこからゴミなのか。机とゴミ箱の間のどこからゴミなのか?小さい頃にそう考える子供だったらしい。私は考えたことも無かったが、彼女はそれについて「モノは入れ物できまるんやなぁ」といっていたことに僕は妙に腑に落ちてしまった。

ちょうど時間があいて小説が読みたかったこともあって、「ヘブン」を読んだ。舞台は学校で、いじめにあっている男子と女子が近づいたり離れたりするそこらにたくさん落ちていそうなお話。

2人はともに美術館にいき、階段で話をする。2人は学校でいじめられつづけるのだが、そのことは特に解決しない。まず女子が立ち上がり、いじめられている自分たちが実は強い存在なのだと男子に告白し、啓示するが、男子はそれに違和感を覚え、距離をおくようになる。。その後男子も立ち上がり、いじめリーダーの右腕的存在である百瀬と口論する。しかし相手にされず、話が通じない。その後も両者は黙っていじめられ続ける。いじめられるものはただのモノとなっているのが一番楽なのだ。

終盤に、雨の降りしきる公園でいじめが行なわれるシーンがある。女子は全裸になって笑い飛ばすことでいじめグループに勝利するが、最終的に彼女は泣きながら笑っている。男子はそんな彼女をなぐさめることしかできない。そこで二人の話はおしまいで、後は、男子が斜視なんだが、その手術が行なわれ、視力が回復することが描かれる。

「ヘブン」というのは2人が行く美術館に飾ってある絵の名前で、女子が勝手につけたもの。このことといじめグループに対する具体的な行動描写からもわかるように、作者は女子を非常に具体的に描けている気がする反面、男子は少し生気が感じられない。それに加えて概念を登場人物に語らせているため、小説全体がより演劇っぽくなってしまっている。

それでもこの小説が教えてくれることは、強さと弱さについてであって、数秒前まで両足で立ち向かっていた女子が崩れる、その泣きながら笑っていることの、弱くて強い、強くて弱いことの、同時存在感。それを、いじめグループに石を持って反抗し強がりたかったものの、結局失敗に終わった男子がかけより、なぐさめる。反抗できるけれども結局できない、この偽善的な男子は強がりつつ弱がっていて本性を喪失している。

本性喪失したものは、ある面モノ的であると思われる。ゴミ箱に入ってゴミになったモノのように、入れ物によって変わってしまう。同時存在は人間的だと思われる。
そしてこの本性喪失と同時存在の最たるものが建築のなかにもある。ただのモノでありながら、さっき弱いとおもわれることがはたまた強くおもわれたりする。建築とは、モノでも人間でもない、その両方の特質を持った第3の存在である。弱そうに見えたものが強そうに見える、あるいはその逆が見えるような、それでいてれっきとしたモノである。


2009.12.26(Sat) - 詩と作文





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