Recently
Archive
Category
Link
Profile


Sortelha

ソルテーリャに行く途中に大きな石の遺跡のようなものを発見した。迷わず車を降りて探検に出かける。柵がはってあり、何か大事なもののようだが迷わず突破する。近づくとやはりただの大きな石ではない。いくつか積み重ねられて、なかに空間ができている。それに小さな石で塀のようなものまで作ってあって、人が手を入れた痕跡がいくらかある。この巨大な石の家の頂上に上ると、うねうねと塀が周りに広大に広がっていることがわかる。近くに水のたまった小さな湖まである。行ってみると結構水がきれいなのだ。深さもあった。生活するのにいい場所だったのかもしれない。管理がいささかずさんな気もするが、古代人が生息していたといわれても納得してしまうだろう。
さてソルティーリャに到着。高い城壁で完全に囲まれた村。この高い城壁の上を歩くことができるのがこの村の最大の売りであろう。高さ5~10メートルほどから見る周りの景色と村の近景は見回りの歩兵になった気分になれる。
ここの墓地は2つに分かれている。新しいものと古いものである。普通である。
村の入り口近くにあるレストランが美味だった。

スポンサーサイト

2009.06.15(Mon) - ポルトガル東部10の村200906


Castelo novo

この村の特徴は城のコンバージョンにある。
巨大な岩の上に城壁だけが残っている。コールテン鋼と黒い鉄で作られたスロープが巨石の頂上に我々をみちびくように作られている。色合いが強烈なのとディテールがきれいなのと新しいのと。無料で開放されているので、子供や大人が遊びにちょっと入ってくるときの、手助けとなるような建築物として作られているのだと思う。あとは管理のためであろう。手すりが半分取れていたりして、外の岩に出て行きやすいような環境がつくられている。
あとは普通の村である。
こので1泊したのだが、その宿がとてもよかった。ペンションだったのだが、建物がとても小さい低層の長細い建物て、その前に大きな庭があって。ちょっとした池があってちょっと小高い場所もあって。そんな小さな世界が村の中に築かれているのをはじめて目の当たりにしました。普段入ることの無い場所に行くと、新しい発見があってとても面白かった。とても気に入ったので、朝建物の平面図をとってしまったほどでした。


2009.06.15(Mon) - ポルトガル東部10の村200906


Castelo mendo

小さな小さな村。この村に目立って特徴的なものはない。ドアの色使いが紫調であるくらいのものである。それもすべてではない。
この村にも墓地がある。ささやかなものだが低地にあるため中がとてもよく見える。ほんとうにこちらの墓地は開放的で白く輝いている。
そんな村で記録すべきことは生活面のことかもしれない。出発間際、仲間をまつため止まった車の中で休憩していると、キャンピングカーがやってきた。総勢3台ほどあつまったのだが、そこへおじいさんが野菜を売りにやってきた。なにやら話し込んでいくつか売れたらしい。それに一緒に写真撮影まではじまった。そこに別のおばあさんもやってくる。しかし彼女はかってもらえなかった。
何かこちらの堂々とした人と人との意志伝達の瞬間を見た気がした。本当にシャイなところがないというか、必要なら近づいていくその精神が、お年寄りから若者まで徹底してあるところに文化の違いを感じる。金がなくても、失うものなんてないのだ。もともと面白いことを面白いと考えて素直に笑ったり、天性的動物的本能のようなものを、こちらの方々は持ち合わせている。逆に言うと疑うということに欠けている気もする。



2009.06.15(Mon) - ポルトガル東部10の村200906


Foz coa / Marialva

記録をとらなければならないという危機感、焦燥感と、文章をかきたい衝動は少し別の星のもののようだ。しかし、それらが合わさらないと文章にならない。

自分の書きたいように書けたら一番いい。それで内容も論理展開も目的も分析もすべて伝わっているのが文章の理想なのかもしれない。その突き抜け方そのものを出すのさえ、結構な努力を要するものなのだ。だからそれに僕はあこがれを抱く。

時折堰を切ったように出てくる衝動を、記録という制約で文字として消化する。書き付ける。今日の僕はそんな感じだ。少し衝動が足りない。ということはやはり他人の文章を読んで勉強したりして、衝動をかき立てればいいのだろうか。
その衝動は憧れのようなものなのだろうか?
もう少し詳しく言えば、気持ちよさのようなものなのかもしれない。

何気なく書いている日記なのに、読んでいて晴れやかになる文章がある。考え込まれたように厳選された歌の歌詞に、自分を重ね合わせて深く感動する文章がある。
そんな文章は、誰かに見せるために書かれてもいるが、誰かをおだてたり喜ばせたりするために書かれた文章ではない。しかし自問自答するわが身をさらけ出す芸術のようなものでもない。

自分の記録をとっているだけなのに、それを他人が見て、心地よくなったりすること。
なんと静かで妄想的で秘密めいたコミュニケーションなんだろうと思う。
そうやって気持ちよさが伝染していくのかもしれないけど、
他人が気持ちよくなっていることを知るすべはあまりにも少ない。

***************

フォシュコアには世界遺産に登録された絵画がある。それは野ざらしにされた石に刻まれたシンプルな線の組み合わせだ。それは遠い昔に人間の祖先が描いたものだと考えられている。なんでもこの祖先というのはホモサピエンスというらしい。そしてこの僕もこの文章をよんでいるあなたもホモサピエンスということになっているらしい。
その石は博物館の中にあるのではない。村からジープに乗って20分ほどいった川沿いに、他愛もなくおかれている。ただの石じゃないかと思って触ったりすると、ガイドにこっぴどく叱られる。そこには銃を持ち、犬を2匹連れた警備員がいる。
線の組み合わせを見て、これが牛だとか馬だとか魚だとか説明してくれる。こういうものを考古学とホモサピエンスは称しているらしい。
例えばホモサピエンスは魚を描くとき、表面が湾曲した岩の部分をわざわざ選んだという。そうやって本物の魚の立体を模して表現したということだ。
もし世の中に絵というものがなかったら、などという絶対に起こりえない仮説が、考古学の世界では起こってしまう。コピーの方法は、その始まりでは速度も遅かったしクオリティーもただの線なのだ。ただし描くためのスペースはたくさんあった。だから少ない線でリアルに表現するために、湾曲した場所を選んだ。例えばこんな仮説。
想像力というのは紙の上で画面の上で行なうものだけではない、自然の真っ只中に言葉で意味を付け加えれば、簡単に深く起こってしまうということを思い出させてくれる場所だった。

話は変わるが、ジープに乗っている間にみたブドウ畑が非常にきれいだった。山に囲まれた平地の真ん中にある農場から、丸くブドウ畑が広がっている。その周りを川が蛇行している。水がありぶどうがあり、それを集める農場があり、生産が見える風景、説明するとそんな感じかもしれない。そんな正しいありかたが、何か世界から取り残されたような風景に見えた。

マリアルヴァへ。この村もLinhares da beira同様、城以外に見るべき場所はない。しかしここの城は中々見ごたえがある。最外部の城壁だけでなく、城壁内部の建物の壁がたくさん残っている。高みから見ると、城の中が町のようになっていて、例えば広場があることまでわかる。城の裏には教会と墓地まであり、これらは現役だ。城の中にこのように村の今の生活で重要なプログラムや活動が入っているのは見たことが無かったので驚いた。
ちょうどかくれんぼができるくらいの大きさと壁の量である。もちろん無料である。ただし怪我をしても誰も取り合ってくれないだろう。実際やってみたが、大きさとしても、大人がやる分にはちょうどいい大きさだった。アップダウンも激しく、死角も多く、かといって込み入りすぎたところもないので、10分あれば1人は確実にみつかる。ということで、ここは大人のためのかくれんぼ施設という中々貴重な名目で、僕の記憶に残ることになった。


2009.06.15(Mon) - ポルトガル東部10の村200906


Castelo Rodrigo

目的を持って書く文章は書きやすい。論文、説明文、なるほどどれも形式がある。それでも出てしまう個性というのもある。あるいはこういう言い方もできる。形式的な文章を書く場合、個性を出すように気をつけながら書こうとする。
目的をもっているのだから、最低限伝えなければならない内容というものもある。あまり長く悩むのも考え物であるという時間的制約もある。そんな制約を抜きにして、文章作成というのはありえない。
自分の書いた文章を、客観的にそれがどんな風に相手につたわるであろうか、と見直す作業も必要だ。

そんなたくさんのことを考えていると、手が止まってしまう。完璧なものを作ろうと最初から頭を止めていると、書き出せない。
かといってくだらないつぶやきのような文章を垂れ流すわけにもいかない。
よく考えると書いている間に目的がでてくることの方が多かったりもする。

良いのはつぶやきのような文章が読んでいて苦にならないことなのかもしれない。理想的にはそれがなにかしら美しいことだ。
そして、そういう文章を読んだときに、僕も何かを書きたくなる。
そういう文章の、文体の、書き方の美しさが僕に伝染する。
文章の美しさは、コピーされて、世界中に模倣者をうみだす。

ところで、今回の文章はだらだらと書いている。書きたいことをだらだらと書いて、そのうちになにか結論らしきが出てくるという方法で書いている。
美しさも、制約もほとんど気にしていない。理想も厳密さも完全さも何もない。
おそらく僕の思考回路が包み隠さずあらわれていることだろうと思う。
それは今日この場所、リスボンの6月15日の暑さの中の倦怠感と無関係ではない。
もう何も考えたくないのだ、でも書き続けなければならないのだ。

**********************
カステロ・ロドリゴという町。この町との出会いはグーグルアースの平面図だった。アーモンドのような形をしている。あさりといっても良い。平凡な小さな村という印象なのだが、形がかわいらしい。
到着して村の入り口に車を止めると、墓地がある。最近墓地に目がない。ここのものもいい仕事をしている。中に入ると、低い白壁によって先程みていた周囲の雰囲気が、一気にすっきりした雰囲気に変化する。壁の上にかなたの平原と山山が見える。墓地に入るのは気が引けるのだが、とてもきれいにしてあるし、立地も大変いいところにある場合が多く、背筋が伸びる思いのできる貴重な場所なので、こうしてお邪魔してしまうことが多い。入り口から直線の道がのびて、その両脇に花のそえられた色々な形の墓石がある。墓石のないものもあり、そこはただ土がもられているだけだ。墓地のプランニングはこのように至って単純ながらもリジッドで、形式や決まりごとがある。
ここの墓はとてもいい。小さなささやかな大きさに対して、あまりに立地がよい。
そこから少し道を登ると村の本当の入り口にたどりつく。この中にのみ建物が密集してあり、この外にはあまりない。この村の壁はオレンジ色がかっていて、あかるい。入ってすぐのカサ・デ・シャはアーモンドやお茶やお酒を売っている小さなお店。ここのアーモンドは辛いのや甘いのや様々な味付けがあって、試食したところとてもおいしかったので是非みなさんもお試しあれ。城に向かう。入場料1ユーロ相当の内容。無料でも2度と行かないだろうという正直な感想。村を歩く。バラがたくさん咲いている。植木鉢からではなく、道の舗装の間から咲いている。表向きはとてもきれいにしてある。生活感がない。
この村で記憶に残っていることは、鳥である。家の壁に鳥がすんでいる。石を積んで家の壁にしてあるのだが、それが結構大きいのか、つみ方の問題なのか、とにかく空隙ができる。そこにたくさん鳥の巣があるのだ。鳥がやってきては帰っていく。その時折の鳴き声がとてもこの村をにぎやかにしている。庭先の水溜りや、草花の意味がすこし変わる。そして建物の意味も変わってくる。


2009.06.15(Mon) - ポルトガル東部10の村200906





/