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六つの同じ方向を向いた目

ケンイチとその父アキヒロは公園に行った。彼らにとっての六回目の夏だった。八月の初めで、気温は三五度を越していた。プールを外から見ると何人かが水のなかにいるのがわかったが、はしゃいでいる声は無く静かだった。
サンダルを脱ぎ、くるぶしまでの高さしかない人工的に水が溜められた場所で足の砂を落とした。ケンイチはシャワーを浴びてプールに入った。アキヒロは日陰のベンチの端に腰を下ろした。
プールは円形で水色の塗料がぬられていた。先に女の子が三人いて、浮き輪を取り合っていた。それから一人の赤ちゃんがいた。プールの周りには緑色のざらざらした滑りにくい床があり、大人たちが柵に寄り掛かったりベンチに座ったりして、プールのほうを見ていた。

ケンイチにとって、父以外は見たことのない人たちだった。
両手で水しぶきを上げると、赤ちゃんが笑いながら近づいてきた。そこで足をばたつかせて、もっと大きな音をたてた。赤ちゃんは脇に立ち、顔をしわくちゃにして、ずっときゃきゃきゃと笑っていた。泳いでプールの反対側に行き、また戻ると、赤ちゃんはその間ずっとケンイチを追いかけながら笑い声を立てていた。
プールから上がって反対側に行くと、赤ちゃんは短い手足を使ってプールから上がり、円を描きながらケンイチの方へ近づいて来た。そして彼の手をとって、ひひと笑いながらじっと見上げてきた。
ケンイチは手を離して水に飛び込んだ。
「ケン、飛び込まない」とアキヒロが言った。ケンイチは振り返った。赤ちゃんはプールサイドに座り込み、真剣な面持ちで静かにゆっくりと足からプールに入っていった。いったん水に入ると、笑いながら走って近づいてきた。
「なんで近づいてくるんだよ」とケンイチは叫んだ。
赤ちゃんはそれでも笑い続けた。
「ねぇ、どうしてニイちゃんにチカづくの?」赤ちゃんの母親がやってきて、彼に質問した。その発音は子供とも違う不思議な感じで、つまり彼女は日本語のルールを長いあいだ学んできたわけではなかった。
 アキヒロは涼しげな笑みを顔に浮かべていた。だがケンイチがプールサイドの緑色の部分を走っているのを見て注意した。
「走らない、ケン」
 赤ちゃんはずっと笑い続けながら、ケンイチの側に寄ってきた。

 しばらくした後、ケンイチが走ってプールにジャンプして飛び込んだとき、赤ちゃんも一緒に走っていった。そして、プールサイドの水色になっている幅の狭い滑りやすい部分で、勢いよく転んで頭を打った。
一瞬の間、全員の視線が彼に集まった。そのとき彼は確かに、ううとかうえんとか言ったと思う。赤ちゃんは勢いよく泣き始めた。赤ちゃんの父親が彼を抱きかかえ、次に母親に彼を手渡した。そのときケンイチは初めて、赤ちゃんの父親が来ていたことを知った。
「バブちゃん大丈夫?」ケンイチは尋ねた。
「うん、大丈夫、大丈夫。ごめん、ごめん」とその父親は言った。ケンイチはそれをバブちゃんに言ったのだし、自分が謝られる状況なのかよくわからなかった。
 その両親はプールの外へ出ていき、木陰にあるベンチで食べ物や飲み物を赤ちゃんに与えていた。あるとき泣き声は止んで、赤ちゃんはプールに戻ってきた。

公園の時計は空に長く伸びていて、見上げると眩しかった。
笛の音が聞こえた。一時五〇分だった。
「二時まで休憩です」監視員の女が言った。
 バブちゃんが泣き始めた。母親がなんとか抱きかかえているが、体を大きく反って抵抗していた。ついに父親がバブちゃんを外に連れ出してしまった。柵の向こう側から、バブちゃんは悲しみで満ちた、笑っている時とは別のしわの寄った顔で、プールのなかを見ていた。そのうちバブちゃんは休憩中の誰も入っていないプールに走って戻ってきた。だが、彼が先ほど転倒したプールサイドで、水に入る前に父親に捕まえられてしまった。バブちゃんは更に大きな泣き声をだした。よくそんなに曲がるものだというくらいに、体を反って抵抗した。
 つばの広い帽子とサングラスをかけた監視員は、ビニールに梱包され棒状にまとめられた円形の塩素材を二つ物置小屋から取り出して、プールと足を洗う水溜りに投入した。そして細長い小さな試験紙をそれぞれの水に浸して、何かの濃度をチェックしていた。
三人の女の子たちは二人の母親のところに集まって、浮き輪がもともとは誰か一人のものであって、それを取り合うために争ってはならないというようなことを言われていた。つまり所有者や貸し借りや順番について、そもそも浮き輪なんてプールに持ってくるべきではなかった、というようなことについて、彼らは話し合っていた。
ケンイチはバブちゃんのところへ行った。「キュウケイチュウは、ハイらない」と母親が強い口調で言っていた。バブちゃんは力強く腕のなかをもだえながら回転して抜け出すと、何度も水のなかに入ろうと試みては失敗していた。
「休みのときは入れないんだよ」ケンイチは抱きかかえられたバブちゃんを見上げながら言った。だがバブちゃんはわんわんと泣き続けた。
「どうして泣いてるの?」
「水に入りたいんだ」アキヒロは少し冷めた気分で静かに言った。
「ほらニイちゃんもハイらないってイってるよ」と言いながら、母親は円形のプールの外周に沿って遠くのほうへ移動していった。しばらくすると父親が母親と赤ちゃんを拘束する役割を交代した。母親は腰に手を当てていて、少し興奮しているようだった。
少したつと監視員が彼らに近づいていって何かを囁いた。
バブちゃんは拘束を解かれた。そして水に入った。その脇にいる女の子たちもケンイチも他の大人たちも、皆がそれを見ていた。次に女の子たちがいっせいに、水に入りだしだ。
「まだ二時になってないよ」ケンイチは叫んだ。監視員が手をプールの方にふりながらアキヒロに近づいた。
「入っていいですよ、あんまり泣くから」と彼女は言った。
「入っていいぞ」
「なんだよ、先に言ってよ」
 ケンイチは水のなかに飛び込んだ。
「飛び込まないって言っただろう、あそこに書いてあるのがわからないのか」アキヒロが言った。針金で柵に止められた板には、「じゃぶじゃぶ池ではとびこまない、じゃぶじゃぶ池でははしらない」と書いてあった。
 泣き声がした。バブちゃんを見ると、彼はなぜか水のなかで泣いていた。だが次の瞬間には泣き止んで真剣な表情で後ろに歩いていた。彼は悲しいのか嬉しいのか自分でもよくわからないというような、曖昧な表情をしていた。
 ケンイチはバブちゃんの方へ、少しずつ泳いで近づいていった。すると彼はまた笑顔を取り戻して、逆にケンイチを追いかけ始めた。

 三人の女の子はプールを去った。そして新しく、とても痩せこけた小さな女の赤ちゃんがやってきた。彼女は母親に手を引かれて、とてもゆっくりと水のなかを歩いた。手に白い紐を持ち、それはアンパンマンのかたちをした浮き輪に繋がっていた。
 あるとき、バブちゃんはその浮き輪を奪ってしまった。ちょうどアンパンの部分にあたる頭の部分を、両手で挟んで引き寄せると、彼女の手から弱々しく紐が離れた。
 皆が、またしても、それを見ていた。
 彼女は泣き始めてしまった。それまで一言も発していなかったけれど、声は身体つき以上にしっかりしていた。彼女の手や足や顔にはほとんど肉が付いておらず、浮き出た骨は病弱さを漂わせていた。
「トっちゃ、ダメ」バブちゃんの母親が叫んだ。
「一緒に遊ぼうね」と、涙で眼が溢れている女の赤ちゃんに向かって、うつむきながら、彼女の母親は囁いていた。
 バブちゃんは驚いた顔をして彼女の泣き顔を見ていた。ケンイチはバブちゃんの両手からアンパンマンを取った。彼の手は握力を失っていて、抵抗することはなかった。
アンパンマンの浮き輪は持ち主に返却された。
「取っちゃだめだよ」ケンイチは言った。
 女の赤ちゃんはすぐに泣き止み、また母親に手を引かれながら、一歩ずつ確かめるように水のなかを歩き始めた。そして母親との二人だけの世界に入っていった。
 バブちゃんはその二人を少し見たあと、首を左右に大きく何度も振りながら、誰もいない方向に水のなかを大股に歩いて行った。そしてううんと声を出してうつむいた。
 ケンイチが泳いでいき、ばたばたと足で水しぶきをあげると、バブちゃんはまた満ち足りた笑顔に戻った。だが、視界にアンパンマンが入るたびに両手を前に出してそれをつかみに行ってしまう彼を、ケンイチは何度か両手を大きく上にあげて「だめだめだめ」と言いながら、止めなければならなかった。
アキヒロは口元に笑みをうっすらと浮かべながら目の前で起こっている出来事を見ていた。何も口出しはしまい、と彼は考えていた。バブちゃんの両親は二人並んで柵に寄り掛かり、プールを見ながら真剣に何かを話していた。
 
しばらくしてケンイチと同じくらいの背の高さの男の子がやってきた。これでプールにいる子供は三人になった。ケンイチはその男の子と遊ぶようになった。
バブちゃんは母親の近くに寄り付くようになった。ケンイチの側で笑うことは段々と無くなっていった。水の中に入り、またプールサイドに上がり、といったことを繰り返すようになった。
 アキヒロには、その母親が「ブルーベリー、ブルーベリー」と繰り返して言うのが聞こえた。彼女は小さな弁当箱を取り出した。バブちゃんが水から上がって、ゆっくりと母親に近づいていくのを、彼は見ていた。
 幼児用のスプーンを使って、ブルーベリーがバブちゃんの口に運ばれていった。アキヒロは、うちの子もあのくらい小さなスプーンを使っていたな、と思った。スプーンの柄には熊のイラストが描かれていたが、それは少し                                                                                                                          剥げてしまっていた。そのとき、監視員の女がやってきて彼女に声をかけた。
「ここは食事禁止です。飲み物だけOKです」
「あ、ソウなんですか」とその母親は答えた。
 バブちゃんは口を大きくあけて、次のブルーベリーを待っていた。母親が弁当箱をしまうと、バブちゃんは大きな声をあげて泣き出した。側に無言で父親がやってきてバブちゃんを抱きかかえた。彼らはプールの入り口にある水溜りを通り越したが、それ以降なかなか姿をあらわさなかった。しばらくして、バブちゃんの後ろ姿が、靴脱ぎ場所になっている窪んだ壁に囲まれた場所から見えた。彼らは狭いその壁のあいだで身を寄せ合いながら、ブルーベリーを大きな口に運んでいた。父親は小さな青いサンダルを手に持っていた。
あるときバブちゃんが振り向いた。そしてアキヒロのほうをプール越しに指さして何か口をもごもごと動かした。両親も振り向いた。そこには六つの同じ方向を向いた目があった。
ケンイチの使っていたスプーンは、この世にまだ存在しているのだろうか、とアキヒロは考えた。それは妻が持って行ってしまった。他にもあの日、冷蔵庫や本棚やガスレンジや、色々なものが家から消えていたのだった。彼女は自分の子供に、あまり興味が持てないタイプの女性だった。だがあのスプーンは手元に置いておきたかったのだ。

 バブちゃんはプールに戻ってくるといくつも枯れ葉を手に握っていた。そしてそれを持ったままプールに入り、水の中で小さくちぎり始めた。ケンイチと一緒に遊んでいた男の子が、浮遊していたその切れ端をプールサイドの排水溝の脇に置いた。
 バブちゃんの手から、彼の父親が枯れ葉をまとめて取りあげた。バブちゃんはまた泣き始めた。
「プールのなかには枯れ葉は持って入っちゃいけない。川のなかならいいけどね。泣いてもだめだよ」
バブちゃんの手が抵抗するときに力に満ち溢れているのを、ケンイチは近くで見ていた。それに対抗して手を開こうとする父親の手にも筋が立っていた。バブちゃんは全ての力を注ぎこんでいたが、力では大人にはかなわなかった。 
自分のことを見ているようだ、と見ていてケンイチは感じた。彼は半年前まで一緒に暮らしていた女性のことを思い出していた。ヒステリックな声で常に叱りつけられ、抵抗することだけでなく泣くことすら次第にしなくなった自分のことも同時に考えていた。その女性の発するルールを守らなければ生きていけなかったときのことを、それがいまはなくなり父親だけになって自由が増えたという、その変化を感じていた。
「だめだよ。だめだよ」とバブちゃんの父親の声を真似して言った。そうしたら何かが起こるかと思った。だが父親は反応もなく去っていった。
言葉を喋ることもできないバブちゃんが、横ではまだ泣いていた。

「あ、チョウチョだ」とバブちゃんの母親が叫んだ。
 蝶が緑色のざらざらとした床に止まっているのを、皆がいっせいに見た。
ケンイチは近づいていき、それを捕まえようとした。
「だめだ」アキヒロはそれだけ言った。
「なんで」とケンイチは振り返って正面からアキヒロを見た。
「死んじゃうだろ」
「なんでだよ」
「なんでじゃない。うるさくするなら、もう帰るぞ」
アキヒロは声を張り上げた。そのときは自分の子供のことを見たくなかった。考えたくもなかったのだ。ケンイチから目をそらすと、バブちゃんは泣き止んでいた。彼はプールサイドに緩慢な動作であがり、肉付きのいい力にあふれた短い右腕を静かに持ち上げた。その先端の人さし指のさらに先で、その茶色い蝶は静かにゆっくりと羽を動かしていた。ケンイチはぐるぐると回って飛び跳ねながら、見るからに元気のない蝶を様々な角度から威嚇していた。そのうち二枚の羽は緑色の床とほぼ水平になった。
それを見ながらアキヒロは二つの目を、じっとしながら小刻みに動く対の眼球を、思い出していた。「私は子供なんて産みたくなかったのよ」と妻は叫んでいた。「あなたが欲しいって言ったんだから、あなたが育てなさいよ。ケンは私と一緒に行きたいっていっているけれど、私は嫌なのよ」

ケンイチはバブちゃんが泣き止んだのを見て、そのチョウチョが何か新しいきっかけになると信じていた。だがバブちゃんは父親に抱きかかえられた。母親は荷物を持っていた。つまり彼らは帰ることにしたようだった。足を洗う水溜りの手前で、バブちゃんは泣き声を上げた。
「バブちゃん」
ケンイチは走っていった。
アキヒロが何か短く叫んだのが聞こえた。その声は本当に怒る一歩手前のような印象だった。
バブちゃんの顔は、悲しいのかそうでないのか自分でもわからないというような表情をしていた。彼らの裏には、熱い夏の青空が空虚に広がっていた。
ケンイチは「自分は決して不幸な子供なんかではないのだ」と自分自身に言い聞かせながら、上を向いて言った。「まだ一緒に遊べるよ」
 ケンイチを見つめながら、その父親は間髪を入れずに答えた。
「ありがとう。でも、もう疲れてしまったんだ。もう足もふらふらしているし、ちゃんと歩けないから危ないんだ。だからもう今日は帰るよ。一緒に遊んでくれて、どうもありがとう。また遊ぼうね」
「ケンイチ、邪魔するな!」アキヒロがこちらへ向かってくるのが聞こえた。
だがそのとき、ケンイチは脇にまるで分身のように同じくらいの背の高さの男の子がやってきたのを感じた。素早く彼に振り向き、「行こう」と声をかけた。そして走り出し、プールに今までで一番大きくジャンプした。

 大きな水しぶきが上がり光を受けた。緑のざらついた床の上で茶色い蝶は突然やってきた冷たい水の流れに浸された。母親に体を拭かれていた痩せこけた小さな女の子は、蝶が水と分離し、排水溝までたどり着かずに途中で取り残される様子をじっと見ていた。すぐあとに母親は何が起こったのかに気づき、女の子の目をタオルでおおって、プールと反対側の方向に体を回転させた。
 監視員は何も言わずに折り畳み椅子に座っていた。サングラスを少し上げ、時計を眺めただけだった。プールにまた、静寂が戻った。

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2015.12.13(Sun) - 詩と作文 2015





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