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떡볶이

「ねぇ、私、トッポッキが食べたいわ」
三日ぶりに妻が話しかけてきたので、僕は心底びっくりしました。
「そうだね。買ってくるよ。たしか九時にはあいてるよね。」
冬でした。僕は部屋着のうえにそのままダウンジャケットを着て、靴下を手にもちました。洗面所に行って、電気シェーバーを顎にあてました。顔がそのせいで歪んで、唇の左右や下の肉が片方に引き寄せられました。剃りおえたあとに笑顔をつくってみると、凄く笑うことができました。
僕はやっぱり嬉しいんだな、と思いながら、靴下をはいて靴をはいて、外へ出ました。
外には雨が降っていました。もう一度、エレベーターに乗って戻りました。
「雨が降ってるよ。なんてことだ。」
 妻の返事は特にありませんでした。
 傘をもって、小走りで坂を下っていきました。自分が住んでいるところと、別の団地のなかを通っていきました。そのほうが近いのです。むかし妻がその道をみつけたのです。やっぱり感謝しないといけないな、と思いました。
 トッポッキ屋は、大きな通りをはさんだ向かい側にあります。大体あそこらへんまで行けば店が見えるなと、場所を思い浮かべながら、坂を下っていきました。
ですから、なんだか店が暗くて、閉まっているのかなと疑い、それから横断歩道を渡って、実際に閉まっているとわかったときは、ショックでした。

僕は待つことにしました。他の店まで買いに行こうかとも思いましたが、しませんでした。僕たちがトッポッキと言えば、ひとつしかないのです。シャッターには閉店の紙も貼られていませんでしたし、閉店の曜日も書いてありませんでした―なんだって今日休まなきゃいけなかったんだ。普通の平日の朝じゃないか。
店長は人当たりのいい、三十才か四十才の男でした。僕は彼の接客の様子を見ているのが好きでした―食べ物もいいし、働いている人もいいし、看板や袋のデザインもいい。そういう店って、なかなかない。
店の前でずっと立って待っているのは退屈ですから、歩き出しました。街区のまわりを一周、その隣の街区のまわりを一周、コースを変えて歩いて、少なくとも五分おきに、店の様子が確認できるようにしました。時々、足をとめて煙草を吸いました。車が坂につくられた凸凹の道を何台も通り過ぎていきました。建設中のアパートで工事作業の音が鳴っていました。時計も携帯電話も持ってきませんでしたから、薬屋に時計がかかっていて、外からでも時間が確保できる場所を見つけたときは嬉しかったです。すぐに九時がやってきて、十時になったら開くかなと思った十時も、過ぎていきました。十時半にもあきませんでした。もうあきらめたほうがいいのかな、と何回も思いました―家に帰って白状してしまおう。ごめんなさい。嘘をついていたのは僕でした。
いや、待ってみよう―十一時になったら開くかもしれません。たとえ急な休みだったとしても、店に何かの用事があって、車で立ち寄るかもしれません。忘れ物とか、調理機器のオーバーホールとか、そういうこともありますし…それに差し出された和解の手を、握り返さないわけにはいかないではありませんか。
ある時、歩き続けるのもしんどくなりました。僕は傘を閉じて、大通りから離れた一件のコーヒーショップに入りました。そこから見ると、店を裏側から見ていることができるのです。クリスマスツリーに絡み付ける電飾コードのようなカラフルな発光体が、テラス席の柵に絡み付けられていました。水分補給をしたかったので、こんな天気なのにアイス・アメリカ―ノを注文しました。店がよく見える席に座ると、半分くらいをすぐに飲んでしまいました。コーヒーショップでは母と娘の二人の女性がカウンターのなかにいました。他には一人も客はいませんでした―こんなにみんな働いているんだから絶対に休日ではないはずだ。足の裏の痛みを感じながら、することもなく、ずっと店のほうを見ていました。
一二時を過ぎたころ、店に明かりがともりました。残りを飲み干して、すぐに外へ出ました―そらみたことか。開いたじゃないか。開いたじゃないか。全く。そらみたことか。
店に着くと、男がいつもの通り立っていました。
「いらっしゃいませ。」
「トッポッキひとつ、天ぷらひとつください。」
「食べていかれますか?」
「…あの…持ち帰りはできますか?」


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2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


커피숍

「なんで私だけ…ひどい」と、知らない間にメールが届きます。それにどう返事をするべきか、僕は考えています。「私、何度も、ほらあの交差点でだって、写真館に行く途中のあの交差点…二回写真館に行ったとき、あわせて四回も、私のっほうを見たじゃない。一度くらい、よかったんじゃないかしら」
 面倒なことになりました。だから僕は今、どこの店にも行かず、家で自分で抽出したコーヒーを飲みながら、机に腕をのせて、考えあぐねています。

 たくさんのコーヒーショップがこの町にはあります。そのうちで、はっきり僕が入りたくなったものは、以下の六つでした。
・The Coffee Bean & Tea Leaf
・Starbucks Coffee
・EDIYA COFFEE
・CAFFEE BENE
・CAFFEE PASCUCCI
・珈琲物語
 これらには全て行きました。また、僕がはっきり入りたくなかったものは、以下の三つでした。
・TOM N TOMS COFFEE
・Angel-in-us Coffee
・A TWOSOME PLACE
 これらのうち、A TWOSOME PLACE以外の二つには行きました。A TWOSOME PLACEには行きませんでした。もちろん上の九つ以外にもコーヒーショップはあります。
 珈琲物語以外はチェーンですから、歩いていると、「また会ったね」と、眼に声をかけてきます。それでも僕はA TWOSOME PLACEには行きませんでした。無視を決め込んでいました。嫌なやつです。
 A TWOSOME PLACEはかわいそうです。少ししょんぼりしています。横断歩道の端のほうで、ひとりだけ離れて、携帯電話をいじっています。

 A TWOSOME PLACEの看板の白い文字の近くには、小さいサイズのフォントでDESSERT CAFÉと書いてあります。そして入口の脇には、遠くからでもわかるように、何種類かのデザートの写真が、大きく掲示されています。僕にはそれが、なんだか嫌だったのです。
 The Coffee Bean & Tea Leafは、他店に比べて特にコーヒーがおいしいと、どこかのブログで読んだから、行ってみたのです(実際とてもおいしかったです)。Starbucks Coffeeは、知り合いに大量の無料クーポンをもらったので行ったのです(どんなサイズ、どんな種類でも構わない、夢のようなクーポンでした。)。EDIYA COFFEEは家の近くにあったので、CAFFEE BENEはスーパーの近くにもあり、とにかく機会があって、色々なところで行きました。CAFFEE PASCUCCIは、オリジナルのタンブラーがみてみたかったので、行きました(割とよさそうではあったけれど、結局買いませんでした。それでタンブラーをみただけだと何となく不充分な気がしたので、ホットのアメリカ―ノを注文しました)。珈琲物語は、この町で初めて行ったコーヒーショップで、なんと一六回も行きました(ふだん僕は回数なんて覚えていないのですが、手元にスタンプカードが残っているので、そしてそれを行くたびに押してくれたので、はっきりとわかるのです)。
 TOM N TOMS COFFEEは、ICに入っていた店がそれしかなく、しかも親戚がコーヒーを飲みに行くのについていっただけです。Angel-in-us Coffeeも、同じようなことです。大体コーヒーショップがありそうだなと思って探していると、それがこの二つのどちらかだったりするわけです。そして何回もそんなことが続いていると、誰かに連れられて行ったり、休みたい衝動に負けられなかったりして、結局足を踏み入れることになります。しかももっとたちの悪いことに、入ってみるとそのときは機能的に困ることはないのですが、やはり僕が普段欲している機能は、やはり満たしてくれないのです。

 A TWOSOME PLACEのほうをちらりと見ますと、思いもよらず、言葉にならないつぶれたような笑い声を残して、先にどこかへ行ってしまいます。
 しばらく僕も歩きます。横断歩道を渡ってオフィス街を歩きます。ずっと下だけを向いて、コーヒーを飲みながら何と言おうか考え続けています。最後にそして、メールを送ります。
「TWOSOMEでDESSERTだから、ちょっと場違いかと思ったんだ。何しろひとりで煙をふかしながらゆっくりしたかったから、遠くから見て、これは違うかなと思ったものは選択肢から外していたんだ。
確かに実際には見ても飲んでも聞いてもいない。君の言う通り、一度くらいはよかったのかもしれない。でもあまりいいことではないとわかっていながら、僕は本を表紙だけ見て、読むか読まないか判断したりもする。正直なところ、女の子を見て、スカートの丈の長さで見たり見なかったりする。深く考えず、TWOSOMEでDESSERTな人のための場所なんだな、そういう人たちがたくさんいるんだろうなって、思っていたんだ。TOM N TOMSもAngel-in-usも似たような話さ。別に彼らが特に好きだったってわけじゃない」
「他のところだって同じだというの?」返信が来ます。
「似たようなものだよ」間髪を入れず、僕はこう返します。
 けれども、それからというもの歩いていてA TWOSOME PLACEを見つけるたびに、それはますますA TWOSOME PLACE以外の何でもないように、僕には感じられるようになってしまうのです。


2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


녹전탕

木曜日の二時過ぎに、五千ウォンを払って鹿島湯に行きます。他の時間に他の銭湯にはいきません。なぜなら心が混乱してしまうからです。同じ時間、同じ建物、同じ混み具合。同じロッカーなどであれば、なお望ましいのです。とつぜん旅客機のように墜落する心配もありません。地震もありません。
待ってください―このもうひとりの僕の掛け声は、考えを改めさせることになります―心配がおそってくる場所がひとつだけあります。サウナです。松明がはじけるような音をだしたり、とつぜん植物臭のスチームを出したりする、密室を高温にする機械。あれだけは今この瞬間に爆発してしまうという不安をぬぐいされません。フィンランド・サウナとスチーム・サウナは地上五階建てのラーメン構造の一グリッドのなかに、設備機器もろともおさめられています。二つを隔てる間仕切壁には、ガラス製の室内窓があり、お互い裸になった男だけの世界が見えるようになっていますが、何の設計意図かとかんぐってみますと、やはりこの唯一の不安である、配管の決定的なつまりや、耐用年数以上の運転によるほころびに端を発した空間の消滅をまぎらわすために、違いありません。わざわざフィンランドと名付けてみたり、室内を板張りや岩張りにして装飾したりしているのも、同様の理由であれば説明がつきます。座っているときには彫刻像のように美や厳格さをたたえている男の裸体も、爆発後の光景を想像すれば、その落差がはっきりしてくるでしょう。思わず機械のスイッチをさがしてしまいたくもなります―この唯一の、不安をいっしんに背負わされている二つの部屋をのぞけば、浴場はかなり解放的です。この国では前を隠す手ぬぐいが不要なので、置き忘れや盗難や紛失による捜索といったことは、ロッカー・キーについているバンドがちぎれでもしない限り、ありえません。ですから、湯に浸かったり、体を洗ったりする空間は、ブルーグレーのタイルで統一されて、無装飾なのです。温度表示の赤い発行文字ぐらいでしょう、意味を押しつけてくるのは。この国の言葉がわからないというのも、あながち悪いことだけではないのです。
サウナを出て、新鮮な水を肩に思い切って浴びせます。それから迷うことなく、水風呂に浸かると、寒暖の差だけではない、爆発死から逃れたという喜びもあいまって、一種の桃源郷であります。誇張のしすぎだと思われるでしょうか。ですが、それは説明をもう少しさせていただいたあとに、判断いただければと思うのです。というのも、この銭湯論に不安がないわけではないのです。多少の装飾過多による不安の払拭は、今は大目にみていただきたく存じます。
さて、“中”水風呂では水泳がされたり、ストレッチ運動がされたりしています。同時に、じっと、ゆっくりと浸かっている人もいます。浴槽の大きさは、二グリッドより少し小さいぐらいでしょうか。あくまで目分量ですが、浴場全体は、五×五、五×六の計二五~三〇グリッドのようですから、かなり大きな割合をしめています。湯温はプールより少し低いぐらいです。実は鹿島湯には、もうひとつ“小”水風呂があって、こちらは超低温で三畳ほどの大きさです。いわばこれが川の最上流、湧き水の出る新鮮な源のような雰囲気をただよわせているのに対して、“中”水風呂は蛇行の途中の巨石の間にできた、水流の溜まり場のような場所です。“中”水風呂の上には、トップライトが設けられていますが、その形状は平凡な切妻型で、陽光そのものを提供しています。そんな具合ですから、僕も頭まで臆面することなく潜り、数個のあぶくを鼻から出すことさえ、容易にできてしまうのです。水深の浅さから立つというよりは、どちらかといえばやはり座って使うというような恰好であること、また平泳ぎをするにしても、一かきで大人ならば確実に反対の短辺まで到達してしまう点が、プールに堕ちていない、人工的でもあり自然的でもある、また別の由縁でしょう。
大体においては気遣いというほどのものはなく、渋滞でバンパーをぶつけないくらいの意識があれば、あとは自由にしていて差支えありません。専用の洗い場に行って、セルフ・垢すりに混じるのも結構です。体勢というものは実に自由であるということが、よく分かります。ですが、一つ真似ができそうもなかったことがあります。
中央に高温・低温それぞれ一グリッドずつ、計二グリッドの温泉浴槽があるのですが、そのまわりの通路にあたる部分に、人が横になって目を閉じています。どうやら川原の石の上だと思い込んで、眠りについてしまったらしいのです。そこからみれば、古いオフィスビルをぎりぎりでかわしてつくられた高速道路よろしく、人々の足という足が自分に当たりそうになるのがかんじられるはずです。それにしても、一度たりとも蹴られたりしたことが…騒動がもちあがって、浴槽脇寝禁止令などが発せられたことがないのでしょうか。いや、不法占拠などといったら、せっかくの桃源郷が台無しです。それぞれが五千ウォン分の重さの、不安からの解放地帯である以上、蹴ってしまうかもしれないという、一人一人のわずかな眼のつぶやきを、極大にしてしまう理由は、ないのです。


2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


정류장

 停留所に毎朝行ってバスを待ちます。誰もかもがそこではバスを待っています。朝は利用する人数が多いので、停留所の建造物の外にあふれだしています。スマートフォンをみている人が一番多いです。電話をしている人もいます。何もしていない人はたいてい音楽を聞いています。僕は一番やってくるバスがみえずらい場所、つまり一番人気のない場所に立って、彼らをみています。バスを待つこと以外に、皆、何かをしています。この停留所には到着時間を知らせる電光掲示がありません。あの町の市内にいくバスにのる人は多く、おおむね十五分間隔で運行されています。この停留所には三路線、あの町の市内にいくバスがとまります。あとは何種類かの市内バスがとまります。しかし、停留所には時刻表は貼り出されていません。細かいことを知りたいのであれば、スマートフォンで調べれば、リアルタイムで、それぞれのバスの現在位置がわかります。それでも、それは韓国語ができなければ、自分でみつけ出すのは難しいでしょう。停留所に外国人サービスセンターがあるわけでもありません。乗るバスの路線番号さえ知っていればなんとかなります。あとは方向さえ間違わなければ大丈夫です。だから停留所は最低限の情報を与えます。路線番号と、その大まかな行き先です。駅名は小さくしか書かれません。囲いとベンチがあって、風をさけるために寄りあって、囲いのなかはバスのなかより混み合っています。ベンチにはみんな、あまり座りたがりません。そんなことをしたら、やってくるバスの番号がみえないからです。
 バスはひっきりなしにやって来ます。ただ目当てのバスは、確実に十五分間隔でしかやってきません。あっても二分早まるか遅くなるかです。雪の日や訓練の日は別だとしてもです。朝は全てのバスが停留所にとまるから安心です。扉がやってくる前から、誰もかもが、自分のとまってほしい位置に立って、運転手をみつめます。決まった場所はなく、バスは囲いの五メートル手前にとまることもあれば、三メートル先にとまることもあります。そして、たとえ僕の目の前にとまったとしても、すでに何人かが僕と扉の間にいます。扉に並走して、はやい者もおそい者も、みんな扉のまわりにくっついてきます。決して列にはなりませんが、扉のステップに足をかけるときには、必ず順番ができます。それがバスと停留所の境界です。この列にならない群衆のなかでの心理は、それは複雑です。マナーがあるとも言えませんし、ないともいえません。ということはそこに固有のマナーがあると考えるべきなのでしょう。明らかな割り込みは誰もしませんが、横から入り込むのは、されることもあります。押したり無理やりということはなされませんが、とにかく一目散に扉の近くに陣取ります。扉が開くまでに、最初のほうか、中間か、最後のほうか、すでに形勢は決まっています。あとはひとつふたつ、順位が変わるだけです。そこには、どちらにしろ座れるだろうという思惑や(現に座れるくらい席はたくさんあるのですが)、スマートフォンをみていたから遅れちゃったというようなことはほとんどありません。全員がこの小さな競争に参加するのです。
 停留所にはこういった小さな熱情のかたまりがあります。だから二人しか乗る人がいなくても、みんな急ぎます。体がなれてしまうと、たとえ一人で待っていても、この週刊が身についてきます。目的の番号のバスが来たときだけ、運転席のあたりに眼の奥から視線を注ぎます。生半端な視線だと、停留所にとまってくれないような気がします。そうしない勇気など、僕にはありません。もっと逆説的な例もあります。そこが停留所ではなくても、やりかたによってはバスに乗ることができます。赤信号の前でとまっているときに扉をたたいたり、ゆっくり走っているときに並走してサイドミラーごしに姿を反射させたりする人がいます。すると扉がひらくことがあります。バスは停留所ではなく、運転手がとめたところにとまるのです。あるいは、一定量の熱量があれば、そこはどこでも停留所になるのです。それは若人が、とか老人が、とかは、あまり関係がありません。一度あなたも試してみてはいかがでしょうか―ただし、手をあげたりしてはいけません。そんなことは誰もしません。それはアピールだからです。扉まで、なんとかたどり着くようにしてください。バスはタクシーではありません。停留所にとまるものです。



2014.03.27(Thu) - 釜山 2014


삼게탕

 この町でサムゲタンを食べたことはありません。でも僕はサムゲタンが大好きです。妻が作ったものが大好きです。それが理由でこの町で食べたことがないわけではありませんが、大好きでも特に食べたいとは思わなかったのです。少なくとも今のところはです。もしかしたら明日、とつぜん看板を急に眼が探し出すかもしれません。ガラガラと半透明の引き戸をあけて、食堂へ入っていくかもしれません。でも、おそらく食べません。僕にとってサムゲタンは自分から食べに行くものではなく、向こうからやって来るものなのかもしれません。探しに行ったサムゲタンを想像するだけで、食欲がなくなります。白い鶏肉が、胃液と混ざった白い液体となって口から出てくる予感がします。
 僕はとても個人的なサムゲタンにまつわる考えについて述べようと思います。今までの話はあくまで導入にしかすぎません。その個人的な体験を文章にすると、次のようなものになります。
「サムゲタンが教科書に出てくると、またか、というデジャ・ヴの観念におそわれる。頭がくらくらし、軽いはき気を覚える。」
 これは僕をいくどもともなく揺さぶり続けてきた体験です。しかし今まで有効な対策を考えたことなんて、ありませんでした。だから一種の錯覚だと考えてきたわけです。ハードワークしすぎて、ちょっと疲れているのかな、という具合です。
 ところで、とつぜんですが、妻はサムゲタン作りが妙にうまいのです。ここだけの話ですが、はっきり言って彼女の料理は雑です。餃子や魚が焦げないかいつも不安です。少しでも指摘すると、例えば、「この麺はもう少しゆでたほうがよかったんじゃないかな」などと言うと、間髪を入れずに「だって」という言葉とともに、言い訳がはじまります。でもサムゲタンの場合、そういう不安は全くありません。僕はそれが食卓のうえに運ばれてくるまで、ゆっくりとテレビをみていられます。チャンネルを変えながら(僕のなかで)最終選考に残ったどうしようもなくつまらない番組のなかで、なんとか面白さをみつけようとするほどの余裕があります。
 話がそれてすみません。教科書のなかのサムゲタンに話をもどします。授業を聞いていると、先生が「次のページ」と言います。僕は他の学生の紙をこする音を聞きながら、ページをめくります。何も考えずに。何も恐れずに。するとそこにサムゲタンの写真がのっています。文字通り僕は、息を飲みます。時間は(僕のなかで)とまります。表情はおどろきのあまり固まります。強烈な状況の再来感とともに、万感の追憶の触手が一気に過去の教科書にあらわれたサムゲタンの肖像を探します。ただそこには何の手がかりもなく、またか、という途方のない高揚の調べだけが残ります。
 事実、僕は何回も教科書のなかでサムゲタンに遭遇していたのでしょうか。それとも教科書とサムゲタンの間には、何らかの再来感をよびおこす化学反応があるのでしょうか。いずれにせよ、今回こうやって記録を残したわけですから、前者の可能性については、検証が可能になったわけです。
 でも…この文章を書き始めてしまったことに、何かサムゲタンにたいする裏切りの気持ちを感じてしまうのはなぜでしょうか。吐き気や頭痛がやってきそうな予感がします。もしかすると教科書のページを無心でめくる日はもう来ないかもしれません。与えられるべきサムゲタンを追いかけてしまった、僕が、やはりいけなかったのでしょうか。


2014.03.27(Thu) - 釜山 2014





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